2016年3月6日日曜日

受難節に寄せて ー 「涙のつぼ」(1)

牧師 山口 雅弘

  イエスの十字架への道を思いめぐらしながら、ヘブル語聖書「詩編」84篇を読み礼拝メッセージの準備をしていた。その時、「たとえ嘆きの谷を通る時も、そこを泉とするでしょう」という文言に心惹かれた。ある英語の聖書では、「乾き切った谷」としている。元のヘブル語は、乾いた荒れ野の谷を連想させる風景を示している。

  同時にこの言葉は、文語訳で「涙の谷をすぐれども そこをおほくの泉ある所となす」と訳すように、「涙の谷」を意味している。歴史に生きた人々は、乾き切った不毛の谷を通り、何が自分を襲ってくるか分らない不安におびえ、多くの悩みや苦労にどれほど「涙」を流してきたであろうか。その思いが、「嘆きの谷」、「乾き切った谷」、また「涙の谷」という言葉に込められているのであろう。


  人生の旅において、懐にどれほど金銀を持っていても、荒れ果てた山や谷を旅する時、本当に自分を守り支えるものは一体何なのか? どのような人も必ず、嘆きと哀しみの「涙の谷」「嘆きの道」を歩まなければならないことがある。そのような「嘆きの道・涙の谷」を通る時、神への祈りの思いを持ち、神を信頼して精一杯に生きていくことができたら何と幸いであろうか。その時必ず、「生命の神」が私たちと共にいて下さることを知らされる。


  私たちは、それぞれの人生の旅を続けている。その中で、何の苦労も悩みもなく歩み続ける人はいないだろう。思いがけない重荷を背負い、不条理なことにぶつかり、失意のどん底に落とされることがある。病気や障がいに苦しめられることもある。また、年老いて自分の弱さを感じ、若い時には思いもよらなかった色々な不安や思い煩うこともあるだろう。また、人知れず涙を流し、この「嘆きの道・涙の谷」を通っていくことが必ずあると思う。しかし、その「涙の谷・嘆きの道」を歩む中で、平和と生命の根源である神を知らされ、不毛と思えるような中で生命の泉から涌き出る水を与えられることは、何と祝福であろうか。

  エジブトのカイロに「涙のつぼ」というものがあるそうだ。私は写真でそれらを見たことがある。小さくさまざまな形の「涙つぼ」の中で、「クレオパトラの涙つぼ」というものに心惹かれた。これはルリの石で作られ、背の高いものだった。何不自由なく生き、権力を持ったクレオパトラも、一人そっと涙を流したのだろうとしばし思い巡らした。          
(次週に続く)

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