2018年12月23日日曜日

ひそかなクリスマ



2018年12月23日(クリスマス)  牧師 山口雅弘


ローソクに4本の光が灯され、イエスの誕生を祝うクリスマス礼拝を迎えた。クリスマスは現在、世界の至る所で宗教の違いを越えて祝われ、一つの季節的な「祭り」として定着している。このことを肯定的に受けとめ、クリスマスを宗教や民族を越えた「平和」の象徴として祝い、世界に「平和を!」という祈りをもってこの時を過ごしたいと願う。
日本でも、クリスマスは楽しい「祭り」として親しまれている。お坊さんの家でも、ケーキにローソクを灯してというように、この時を楽しく過ごしていると聞く。それだけに、祭りが終わるとすぐに松飾りやしめ縄を飾ってお正月の雰囲気に変えるという変わり身の早さも見られる。ルカ福音書には、イエスの誕生に際し「地には平和があるように」とメッセージが語られているが、その「平和」を求めることと裏腹に、私たちの社会においてクリスマスの意義が隠されているのではないだろうか。
実は、歴史的に見ると、イエスの誕生自体が、ユダヤの都にあふれる華(はな)やかさとは違い、密(ひそ)かな出来事であった。むしろ表舞台に生きる人々には「隠されて」いた。エルサレムの神殿や王の住む宮殿の中にではなく、華やかさの陰に深い哀しみをもって生きざるを得ない人、社会の片隅に生きる貧しく弱くされている人の所にイエスは誕生した、と聖書は告げている。また、悩み苦しむ人、孤独と重荷を抱え、病2018年や差別に打ちのめされて生きる人のただ中に、神によるイエスの誕生があったと告げている。イエスの誕生のみならず、十字架の死に至る生涯そのものが、晴れやかな表舞台に生きる人々には、神の子・救い主とは理解されず、隠された貧しい姿をとった出来事であった。
私は以前、現代のクリスマスを問い直し、クリスマスが「文化の祭り」、「消費経済を支える祭り」、また「社会の現実を見えなくしている祭り」になっているということを指摘したことがある(『イエス誕生の夜明け』260頁以下)。つまり、クリスマスの本来の姿が見えなくされ、隠されているということである。このことについて、クリスマスの時に静かに思い巡らしたい。

2018年7月15日日曜日

「女性は子を産む機械」発言をめぐって(2)

2018年7月15日(牧師 山口 雅弘

先回に続き、聖書の使信に関連して気になっていることを記しておきたい。政府与党の国会議員また自民党幹事長などが「女性はもっと子どもを産むべきだ」と発言し、あるいは「子を産まないほうが幸せに過ごせると考える勝手なことを言う人が増えている」との問題発言が続いた。9年ほど前にも、当時の厚生労働大臣が、女性は「子を産む機械、装置」と発言して辞任に追い込まれた。にもかかわらず、依然として女性差別の発言や行為がなぜ無くならないのであろうか。
このことは、憲法の重要な根幹である「基本的人権」を著しく傷つける行為であり、女性に対する人格否定であることをなぜ理解しないのであろう。

「いのち」は人の思いや計画によって「生産」されるものではないであろう。特定の信仰を持たなくても、どれほど生命科学の技術が「発展」しても「いのち」は神秘にみち、「いのちの誕生」は奇跡に近いと思う人は多い。
さらに、女性に「子を産む機械」の役割を押し付けることによって、色々な事情で子どもを持てない女性やその連れ合い、子を産まないと決断した女性、さらには「結婚」しない女性は「役立たず」であると言っているに等しい。その人々の意志や決断、また気持ちを考えたことがあるのであろうか。

先回も指摘したが、スウェーデンのようにいくつもの国が、性別にかかわらずに平等に仕事・家事・育児に携わることを後押しする「社会システム」を作ろうと努力している。その過程において、子どもの出産数が増加になったことも広く世界で知られている。
子を産む・産まない・産めないことだけではなく、多くの女性また小さく弱くされている人がハラスメントによって、その一人一人が傷つけられているか計り知れない。かく言う私自身も、差別意識によって女性や様々な人に辛い思いをさせていると思わざるを得ない。そのことを意識化し、忘れないで自覚したい。
女性が、また様々な性意識を持つ人、性指向を持つ人が一人の人間として尊ばれ、家族や社会に喜びをもたらす存在として生きていけるように願ってやまない。また、どの人もありのままに大切にされる「教会」でありたい。 

(「他者・弱者」の代表として「女性」と書くことが多いが、今回はあえて生物学的な性に基づく女性に焦点を合わせて、あえてカッコをつけずに女性と書いた)

2018年7月1日日曜日

「女性は子を産む機械」発言をめぐって(1)

2018年7月1日(牧師 山口 雅弘

今日のメッセージ、また聖書の使信に関連して、気になっていることを記しておきたい。
このところ政府与党の国会議員また自民党ナンバー2の幹事長に就く議員から「女性はもっと子どもを産むべきだ」、あるいは「子を産まないほうが幸せに過ごせると考える勝手なことを言う人が増えている」との問題発言が相次いでいる。この種の発言はなぜ無くならないのであろうか。また、女性蔑視や性差別、ハラスメント発言や行為がどうして無くならないのか。9年ほど前に、当時の厚生労働大臣が自民党県議会で「15歳から50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから・・・」と発言して辞任に追い込まれた。にもかかわらず、依然として女性差別の発言や行為が無くならない。
このことは、憲法に保障されている基本的人権を著しく傷つける行為であること、また女性に対する人格の否定であることをなぜ理解しないのであろうか。

女性のみならず様々な性の自意識を持つ人、また多様な性指向を持つ人(LGBTQ: レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダ―、そして Qはどのカテゴリーにも縛られずに自分自身であるというアイデンティ 
ティをもつ人)に対する差別、心身に障がいを持つ人への差別は、女性また人の生命と人間性を否定し、その尊厳を奪うものである。それはまさに暴力であろう。
これらの発言は、「少子化問題」の中での発言であれば、先ずは女性が仕事をしながら出産を望めば、その環境、ジェンダー差別を生まない社会の「システム」を考えるべきであろう。スウェーデンではその社会的システムを作る過程で平均出産数が増加したことは広く知られている。そのことから学び、社会を変えようとする意識も努力も日本の政治家に見られない。
そもそも「いのち」が人の人格を無視し、またそれぞれの人生における決断を無視して産み出されるかのような「発想」をどうして持つのであろうか。

(「他者・弱者」の代表として「女性」と書くことが多いが、今回はあえて生物学的な性に基づく女性に焦点を合わせて、あえてカッコをつけずに女性と書いた)
(次週に続く)

2018年5月20日日曜日

一生懸命に頑張り過ぎず

2018年5月20日(ペンテコステ    山口 雅弘

「真実を求めて」避けてはならないことに携わると、どうしても一生懸命に「頑張り過ぎ」てしまうことがある。その時に、次のことを思い起こした。
北海道の浦河という小さな町に、小さな浦河伝道所がある。その教会に関係する「べてるの家」という施設では、心の病を持つ人たちが作業所を営みながら共同生活をしている。べてるの家では、「頑張らない」ことが大切にされているそうだ。それは、病気や障がいを持つ人が「あるがままに」互いを受け入れ合うためである。そこで暮らしていた山本賀代さんという方が記した詩を紹介したい      (横川和夫『降りていく生き方』太郎次郎社、2003)

わたしの どこがいけないの
あのこの どこが変でしょう
目に見えるもの 少し違うかもしれない 
聞こえてくること 少し違うときもある
だけどそれだけで 見下さないで 見捨てないで

私だって笑っている 私だって怒っている
私たちも愛し合う 私たちも語り合える
痛みもある 喜びも 苦しみも
あなたと同じに 感じているはず

人間なんだ あなたと同じ 
人間なんだ 私もあなたも
人間なんだ 病気とかでも 
人間なんだ あなたも私も  ・・・

この詩に表されているように、互いの違いを受け入れ合い、多様性の豊かさを求めて「互いに愛し合う」現実を求め、一生懸命に生きている人々がいることを覚えたい。そのためにこそ、過ちや不誠実なことを曖昧にしておかないそうだ。
教会には色々な人が集ってくる。また誰でも来ることのできる場所である。年齢や性別や性指向(異性愛、同性愛、両性愛など)、置かれた立場や環境、また考え方が違う人が集い、それぞれの哀しみや重荷を背負って生きていける、その基いとして、また出発点として教会が用いられるのであろう。その教会の中心は、神にこそ呼び集められた者の「礼拝の集い」ということにあり、何はなくても「礼拝する群れ」であろう。
稲城教会に集う私たちは、神の生命の息吹に生かされ多様な人生を「生かされている」、このことをペンテコステに静かに思い巡らしたい。

2018年4月1日日曜日

いのちの朝 イースターに寄せて

                            2018年4月1日 イースター     牧師 山口雅弘

やっと春がやってきた。北国では、解けゆく雪を押し上げて、いのちの芽がグングンと現れてくる。自然の草木が春を知っているかのように芽生え、花を咲かす。教会の小さな梅の木は輝くように咲き、今は桜が満開を向かえている。私たちも、自他共に暗い闇のような世に生きているが、春の息吹を肌で感じ、五感を通してその「いのち」を受けとめる感性を持ちたい。

毎年、春とイースターは切り離せないものとして訪れる。闇を突き抜けて、新しいいのちに生かされ歩み始める時であろう。春の光を浴びて解けゆく雪を見ると、なぜこんなにもどす黒いのかと思えるほどドロドロとして汚い。白く輝く雪に潜む闇のような気がしてくる。私たちの内外に潜む罪の姿を思わせる。にもかかわらず、いのちの光に照らされて新しく生きていけるように「立て、さあ行こう!」とのイエスの促しを与えられている。感謝したい。

幸せな時に「感謝」することはやさしいかも知れない。しかし、「不幸」としか思えない哀しみと不条理の中にあって、それでも神を信頼して立ち上がり、新しく生きようとする意志と勇気を与えられることは何とすばらしいことであろうか。あふれるいのちの水を与えられて、何ごとにも屈しない「いのち」を与えられるからである。
私たちは、自分の人生において悩み苦しみを避けることはできない。しかし、私たちは決して絶望しない。神は私を、そして私たちを決して見捨てず、愛していて下さるからだ。私たちの哀しみに神の慰めを、醜い心に優しさを、傲慢に謙遜を、無気力に立ち上がる勇気を、絶望に光を与えられますように祈りたい。そして、神はどのような時にも私たちを愛していて下さるという「気づき」を与えられますように祈りたい。神を信頼し祈ることは、必ずかなえられることを信じ生きていきたい。

イエスの十字架の死は、人の命と人生を「愛する」生き方の極みであった。イエスは確かに弱さと苦しみのただ中で十字架によって殺された。しかし、それで終わりではなかった。神によって、闇の支配と暴力に打ち克つ「愛の勝利」として、「イエスの生命は新しく生きている」、これがイースターのメッセージとして聞こえてくる。新しい「復活の命」として生きて働くイエスが共にいて下さるから、私たちはどんなことがあっても、私たち自身が闇から立ち上がる「復活の命」をもって生きることができるのであろう。
イースターの「いのちの朝」、私たちは「今を新しく生きていこう!」とイエスに促されているのであろう。感謝したい。



2018年3月4日日曜日

『わが涙よ わが歌となれ』

2018年3月4日 受難節第三 牧師 山口 雅弘

受難節を迎え、『わが涙よ わが歌となれ』(新教出版 1979年)を思い起こした。夫から肺がんあることを知らされた原崎百子さんという人の日記をまとめた本である。病気を告知した夫に対して、彼女はこう言ったそうだ。「ありがとう、ありがとう。よく話して下さったわね。可愛そうに さぞ辛かったでしょうね…」と。
百子さんは日記帳を二冊買ってきてもらい、48歳で亡くなるまでの45日間のことを記し続けた。彼女は、病気の苦しみと闘いながらも明るく振舞い、務めて笑顔を絶やさない日々を過ごしたそうだ。自分の死を見つめ、神に与えられている生命を生きようとする、神の愛に生かされた人の証しと言えるであろう。
彼女は決して特別の人ではないと思う。癌であることを知らされ、4人の幼児を残して死を迎えなければならない不条理の苦しみに突き落とされ、人目をはばかることなく涙を流さざるを得なかった。それでも彼女は、精一杯に神に向き合い、自分の一日一日の人生を大切に生きようとした。
その死の様も、平安から程遠く見えたという。夫が次のように言っている。「突然 “神様!助けて下さい。この苦しみから救って下さい。まだ苦しみが足りませんか!” と叫ぶ。… 夜になり、…正真正銘の臨終の苦しみが始まった。… 妻は声も出ず、最後の最後になった彼女の意志表示は… 指先であったが、私と妻との間にだけ通用する暗号で “イルド”(Ich liebe dich.「愛しています」)と告げた。私も彼女の掌に “イルド”と書き返した。その瞬間だった。彼女は激しく痙攣し、以後約二時間… 苦しみ…、最後の部分を闘い通した…」。
原崎百子さんは歩けなくなり、礼拝に行けなくなった日曜日に、このような詩を書いている。
わがうめきよ、わが讃美の歌となれ
わが苦しい息よ、わが信仰の告白となれ わが涙よ、わが歌となれ
主をほめまつるわが歌となれ … …

彼女は自分の死をみつめて苦悩し、叫び、自分の限界を知らされて打ちのめされている。しかし、そこで神を見上げ、弱さをもったまま神を信じて生き、また生きて最後を迎えた。
イエスの十字架の苦しみと死を見つめる受難節のこの時、信仰の先達者に連なり、自分に与えられている生命と人生を自分なりに生きようという思いを新たにさせられる。

2017年12月31日日曜日

戦場のクリスマス

2017年12月31日  牧師 山口 雅弘

先週は多くの方々とクリスマス礼拝を捧げることができ、今日は2017年最後の礼拝を迎えている。世の中はクリスマスが終わると、すぐに年末・年始を迎えてあわただしく、神社・仏閣は新年の初詣でにぎわうであろう。その中で私たちも、なんとなく「クリスマスは終わった」という気分になってイエスの誕生の感謝も遠のいてしまいそうになる。私たちにとってクリスマスの季節は、喜びに満ちた神への感謝の時であるが、その感謝を忘れたくない。
依然として心痛む出来事や哀しいことが次々と起きる中で、「地には平和がありますように」と祈りながら新年を迎えたい。また、すべての人に「平安と平和を与えて下さい」と祈り、私たちのできることがどれほど小さくても、「神の愛と平和を実現しようとする」祈りと行いをもって歩みたい。
昔、『ドイツ戦没学生の手記』(岩波新書)を読んだことがある。第一次世界大戦の時、戦場にいる兵士たちはやがてクリスマスの時を迎えようとしていた。戦争に駆り出された学生の兵士たちの間には、クリスマスの時くらい休戦にしたいという思いが募ってきたと言う。そして日没になると、一人・二人と手にする銃を撃つのをやめ、やがて銃声がピタリとやんだそうだ。今までにない静けさが人々を包み込む中で、兵士たちは「こんなに静かな夜があるのか」とその静けさの中でしばし安らぎを与えられた。
すると、どうだろう。敵・味方の双方からクリスマスの讃美歌を歌い出す人が出てきたのだ。今の今まで殺し合ってきた者同士が、夜の静けさの中でクリスマスの讃美歌を歌い、不安と同時にひと時の安らぎを与えられたのである。
明日、命を失うかもしれない若者たちに、ひと時の平和が訪れ、たった一日の平和、戦場で迎えたクリスマスになった。
生命を奪い合う地獄の中で、学生たちは手記を残したのが先の本に纏められた。ひと時の平和でも生み出すことができた、その「できた」という喜び、その可能性、希望が生まれたことを知らされる。そのひと時が一日になり、二日が三日になり、そして戦いをやめて平和を生み出すこともできるのではないかと思う。

これは幻や夢ではない。イエスを通して知らされる神の愛と平和に思いを寄せ、銃に代えて讃美を奏で、どれほど厳しくても、どれほど闇が深くても、その現実の中で必ず戦いを終わらせる「希望」があることを知らされる。「光は闇の中に輝いている!」。このことを忘れずに、新年を迎えて生きていきたい。