2014年5月25日日曜日

キーワードは “いのち”

牧師 山口 雅弘

聖書が示す重要なメッセージとして、「いのち」というキーワードを心に留めたい。あらゆる戦争や暴力、自然環境やエコロジー、教育や人権・差別の問題、また政治や経済の問題など、すべての問題を克服する課題は、突き詰めれば「いのち」の問題に集約される。互いの「いのち」を慈しみ、大切にし、「いのちの尊厳」を守るという課題である。それも人間の「いのち」だけではなく、自然や動植物の「いのち」に関わる課題である。

その「いのち」を勝手に支配し、欲得のために用いてきたのは、私たち人間であるとしか言いようがない。であるならば、どうしても「いのち」の根源である神に向き合うことが求められる。「いのち」を与え、「いのち」を慈しむ神を信じる。このことが、おごれる人間を打ち砕くものとなるであろう。
今、日本も世界も、ますます混乱と争いが絶えない不安の時代を迎えている。創世記の天地創造の物語で、「地は混沌とし、闇が覆っていた」と語られるのと同じであると言わざるを得ない。その中でいつも犠牲にされるのは子どもたち、小さく弱い人々である。このような時にこそ現実を見据えながら、聖書のメッセージを真剣に聞いて、この時代に生きる者でありたいと願ってやまない。それは、「いのち」の根源である神に思いを向けることと切り離せないであろう。

聖書の冒頭において(創世記)、神はすべての動植物、とりわけ人に「いのち」を与え、生かして下さるというメッセージが主張されている。人は神に愛され、「生かされて在る」者とされている。そのことに根ざしてこそ、人が人として、それ以上にもそれ以下にもなってはならないという真実が輝く。どの人も、あるがままに尊い者として、神に大切な存在とされているのである。

このことを心に刻み、どの人もただ依存し合うのでなく、尊い「いのち」を与えられている者として自立し、互いに生かし共に生きる「人生」を与えられているのである。この聖書のメッセージを心に刻みたい。

2014年5月18日日曜日

施しと愛

牧師 山口 雅弘

イエスと弟子たちは、旅の途上において何でその生活を支えていたのだろうか? ガリラヤの村々を旅する前は、イエスは小さい時から農業と共に「木工職人」として働いて食を得、弟子たちも農民や漁師として生活していたと思われる。しかし「枕する所」なく、神の国の福音を宣べ伝え始めてからは、おそらくイエスと同伴者たちは、人々のもてなしや施しをいただいて生活していたのだろう。旅人をもてなし「施し」をすることは、ユダヤ人の大切な行為であったからである。福音書の至る所に、イエスとその一行がさまざまな人の家で食事を共にしていることが語られていることからも容易に想像される。少なくても、「仕事」の成果に見合ったお金や物品をもらって生活したのではなかっただろう。

イエスが殊のほか人を見る眼差しが強く、外面によらずに人の心の奥底を見抜いているのは、さまざまな苦しみ・重荷を背負う人と出会っているからであり、他方、「施し」で生活していたからということも見逃せない。人の心の奥底にある汚さ・愚かさ・傲慢、また優しさや愛は、ものを差し出す時に表われることが多いからである。

イエスは、人の心の底を見れば見るほど、「人間」というものの哀しさ・憐れさを知り、その人間をこそ愛したのである。だから、人の純なる心に接して、イエスは涙を流されたのだろう。

私たちは、イエスの眼差しが、私たちの汚さ・愚かさ、また傲慢に注がれていることに気づかないし、イエスの愛が実に私たち一人一人を全身で受けとめ、あるがままに「受容」しているからこその愛だと知らずにいるのではないだろうか。その極みが、イエスの十字架の出来事に証言されている。「神よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と祈るイエス。少なくても、イエスの十字架に向き合う人々は、イエスの祈りをそのように受けとめたのであろう。

イエスのもとから逃げ去り身を隠す者、見物する者、遊びほうける者、争い合う者、批難し合う者、告げ口する者、噂に興じる者… またあなたも、私も…。そして、赦されることのない過ちと罪を抱えて、「赦したまえ」と祈る他なく、その罪過を背負った者として「受容」されているからこそ新しく生きる道が拓かれていくことを知らされる。

愛をもって生きようとする私たちは、実は愛を受けなければならない身であることを示されるならば、感謝する他ない。

2014年5月11日日曜日

歴史の彼方からの“声”

牧師 山口雅弘

先週の「聖書を読み祈る会」の冒頭で、『聖書』を読むことは何千年前の「歴史の彼方からの“声”を聴く」ことであることを話した。それも、そのすべてが「死者たちの声」であり、そこに示される生命の証しをどのように聴き取り、生きた語りかけとして受けとめるかが重要であることを皆で分かち合った。

古い過去の歴史から何を聴き、何を学び、今日を明日へとどのように生きようとするかは、その人がどこに「視点」を置いて学ぼうとするかに深く結びついている。聖書に記されている何千年前の出来事、そこに語られている人々の生き様や出来事を想いめぐらす時、そのことが歴史を越えて「今」の私たちに響き合うことを知らされる。さらに、歴史の中で失われ、聖書に記されることなく隠されてしまったと思われる出来事を、わずかな痕跡を頼りに想い描く時、「歴史の彼方からの静かな声」が聴こえてくることもある。

歴史の中に生きて弱く小さくされた人々、様々な力や出来事によって悩み苦しみ、疲れ果て、打ち倒され、危機的状況の中にある人々に視点・目線を合わせると、厳しく辛い状況にもかかわらず、神の支えと希望を信じて立ち上がり、その中を生きていった人々の「声」が聴こえてくる。たとえそれが「か細い声」であっても、神に支えられて生きた人々の声を聴く時、私たち自身、心打ち震え、大きな励ましを与えられ、人の思いを越えた神の働きがあるという生命のメッセージを与えられる。
また歴史の出来事を探っていくと、ある日、あることが、歴史の大きな転換点を引き起こすきっかけになっていたことを知らされる。人の目には、よもやこのようなことがと思える出来事の中に、あるいは愚かと思える過ちや失敗の中にも神の働きがあり、神が用いて下さることを知らされる。その一人一人によって、歴史は変えられていくのだろう。

イエスに招かれ共に歩む「弟子たち」は、これという取り得のない者ばかりであった。むしろ皆、失敗や過ちを繰り返す者であった。にもかかわらず、その一人一人が、神に用いられ生かされたのである。

人の思いや行ないを越えた神の働きがあることを信じ、歴史の彼方からの「声」を聴こうとするならば、自分の行なっていることがどんなに力なく弱く見えようと、失敗や欠けがあろうとも、神の計画の中にあるということをいつか必ず知らされるであろう。このことを感謝して生きる者でありたい。

2014年5月4日日曜日

詠み人知らずの“さんびの詩(うた)”

牧師 山口雅弘

今はもう名前の知られない人が生きた証しとして詠んだ詩を紹介したい。歴史の中で確かに生きた人が、神に思いを向けて詠んだ詩であろう。「歴史の彼方からの声」として心にとめたい。

神を呼びまつれ          
いばらの荒野に迷えるときも    
神は汝を求めたずね給えば     
逆らうことなく神を呼びまつれ   
「神よ」と声の限りに        

病の床にも淋しきときも     
神は汝がそばに在りし給えば   
臆することなく神を呼びまつれ  
「わが神よ」と声の限りに     

いこいの園にて楽しむときも       
神は汝がそばを歩み給えば     
ためらうことなく神を呼びまつれ  
「われらの神よ」と声ほがらかに   

愛さない罪を
愛さない罪を 
心の底からざんげします
傷ついた人の苦しみを
神よ 愛によって癒したまえ

賜った愛を
心の底から感謝します
応えない者のおろかさを
神よ 愛によって赦したまえ

助け合う愛を
心の底から祈り求めます
弱い私たちの行く道を
神よ 愛をもって照らしたまえ