2014年6月22日日曜日

途上を生きる教会

牧師 山口 雅弘

先週の「牧師就任式」の後に、ある方が帰り際に「先生、これからですよね」と言ってくださった。実に嬉しかった。まさに「これから」という思いを強くした。
稲城教会は、公けに設立されたのが1949年である。神の壮大な歴史から見れば、若い教会と言えよう。それだけに過去の歴史や伝統に縛られず、試行錯誤の中で創意工夫をし、どんな困難をも乗り越えて、神の愛と神の国の福音を宣べ伝えようという気概にあふれた年代である。
確かに時は移り行き、人も変わっていく。けれども「今」、小さな子どもたちから年配の方々も一緒になり、若い教会として青春の時代の中に生かされていることは恵みであろう。ここで、サムエル・ウルマンの「青春」という詩を想い起したので、その一部を紹介したい。
青春とは・・・ 心の持ち方を言う ・・・
たくましい意志 豊かな想像力 燃える情熱を指す
青春とは 人生の深い泉の清新さを言う
青春とは恐れを退ける勇気  安易を振り捨てる冒険心を意味する・・・
年を重ねただけで人は老いない
理想を失う時 初めて人は老いる・・・
・・・
君にも吾にも 見えざる神の愛を受ける場が心にある
人から 神から 美・希望・喜び・勇気・力の霊の風を受ける限り 
君は若い
・・・
頭を高く上げ 希望の波をとらえる限り
80歳であろうと 人は青春に留まる
この詩には「大いなる楽天主義」の気概、神への信頼と希望をもって生きようとする「魂の息吹き」が見られ、それが心に響くのだろう。
最初期の教会は、自己完結を求めず、小さく、組織も定まらず、財力がなくても、常に教会の外に目を向け、イエスによって示された神の愛をもって「他者のために生きよう」とする群れであった。稲城教会も、イエスによってもたらされた生命と愛を「新しい皮袋」に入れるように、常に青春の息吹きを与えられて生かされることを願ってやまない。

2014年6月15日日曜日

教会の歴史の主人公

牧師 山口 雅弘

稲城教会に遣わされて、あっという間に2ヵ月半が過ぎた。礼拝後に就任式を予定しているが、あらためて稲城教会の歩みを思いめぐらした。教会の一断面として、考えさせられたことを記しておきたい。

 通常、教会の歴史や記念誌がまとめられる際に、歴代の牧師や役員が表舞台に現れる。その方々の祈りと働きがあって、教会の歩みは豊かにされてきたのは確かであろう。

同時に私は、「公けの歴史」に留められることの少ない人々、歴史の背後に隠され見えにくくされていく人々への思いを熱くする。牧師や役員と共に、その方々が教会を支え、歴史を形成してきたのである。

忙しい日々の中で礼拝をささげ続け、病気や心身ともに不自由を抱え、重荷を負いつつも、神の愛に応えて礼拝を大切にしてきた方々がいての稲城教会である。また、さまざまな事情で礼拝に集えなくても、教会のために祈り、捧げ物をしてきた方々がいることを忘れてはならない。

また、礼拝のために司会・奏楽・受付などを通して教会の働きに参加し、また花を飾り、掃除をし、表になり裏になって教会の働きのために祈り、悩み苦しむ人に語りかけ、その一人一人に寄り添う方々。花壇の手入れをし、台所に立ち、ゴミをそっと片付ける方々。また、幼い子どもたちのために祈り、礼拝において子どもとのひと時を受け持つ方々…など。
こうして、教会のために祈り、支え、捧げ、教会を形づくる方々こそが、神が導き育てる教会の歴史の主人公なのである。

 教会はまた、過ちや挫折をも経験してきただろう。人間関係がギクシャクしたこともあったと思う。にもかかわらず、弱く「いと小さき人」の場に生きようとした方々の祈りと志を私たちは持ち続けたいものである。

社会の至る所で、人間が束にして扱われ、多くの人が人知れず苦しみの叫びをあげ、涙を流しているとすれば、教会に与えられている使命は大きい。それは、稲城の地に生かされる教会の課題であると同時に、アジア・世界の中の日本が抱える問題でもある。

 稲城教会が、右傾化した危険な時代と社会の中で、イエスの福音に生かされるがゆえに苦闘を強いられても、神の生命が小さな教会に躍動するエクレシアとして歩めるように祈りたい。

牧師も人も、教会も建物もいつしか歴史の中で変わっていくが、いつもすてきな教会でありますように祈りたい。

2014年6月8日日曜日

へたも絵のうち

牧師 山口 雅弘

画家の熊谷守一氏の『へたも絵のうち』という本を思い起した。この人は山の中で育ち、そこで養われた天衣無縫な生き方が絵によく現れているようだ。絵画のことを知らない私にも、この人が絵で描き文章で表わす彼の「心」が伝わってくる。本に記されているいくつかの文章を紹介したい。
「私は上手下手ということでは絵を見ない。」 「どうしたらよい絵が描けるかと聞かれる時、私は、自分を生かす自然な絵を描けばよいと答えてきた。下品な人は下品な絵を描き・・・下手な人は下手な絵を描きなさい、と言ってきた。」 「絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと見ている。自分にないものを無理に何とかしようとしても、ロクなことにはならない。だから下手な絵も認めよ、と言ってきた。」

これらの文章に込められた熊谷氏の「心」を思い巡らすと、絵を描くこの人自身の生き方がよく現れているように思う。そして何よりも、自分の生き方、また他の人の生き方を認め、大切なものとしていることが分る。

キリスト教の信仰は芸術と違うかも知れないが、「お前の信仰は間違っている」、「本当の福音とは・・・」「正しい聖餐とは・・・」と声高にいう人の語ることを聞くと、熊谷氏ではないけれど、「下手も認めよ、これも誠実な信仰の表われ・・・」と思う。信仰においても、生活のあらゆることにおいても、得意・不得意、上手・下手をみな持っている。みな違っていて、みな神の前にかけがえのない大切な人である。そして、それぞれが認め合い支え合い、「キリストの体」なる教会を形づくっている。

信仰を持って生きるとは、上手・下手ではなく、「自分のものか」ということだろう。最初期のキリスト者はみな多様で過不足をもっていても、希望を失わず「信仰をもって生きた」ことを静かに想う。そう、今日はペンテコステ。産声を上げて誕生した小さな教会が歩み出したことを記念し、喜び祝う日である。