2017年12月31日日曜日

戦場のクリスマス

2017年12月31日  牧師 山口 雅弘

先週は多くの方々とクリスマス礼拝を捧げることができ、今日は2017年最後の礼拝を迎えている。世の中はクリスマスが終わると、すぐに年末・年始を迎えてあわただしく、神社・仏閣は新年の初詣でにぎわうであろう。その中で私たちも、なんとなく「クリスマスは終わった」という気分になってイエスの誕生の感謝も遠のいてしまいそうになる。私たちにとってクリスマスの季節は、喜びに満ちた神への感謝の時であるが、その感謝を忘れたくない。
依然として心痛む出来事や哀しいことが次々と起きる中で、「地には平和がありますように」と祈りながら新年を迎えたい。また、すべての人に「平安と平和を与えて下さい」と祈り、私たちのできることがどれほど小さくても、「神の愛と平和を実現しようとする」祈りと行いをもって歩みたい。
昔、『ドイツ戦没学生の手記』(岩波新書)を読んだことがある。第一次世界大戦の時、戦場にいる兵士たちはやがてクリスマスの時を迎えようとしていた。戦争に駆り出された学生の兵士たちの間には、クリスマスの時くらい休戦にしたいという思いが募ってきたと言う。そして日没になると、一人・二人と手にする銃を撃つのをやめ、やがて銃声がピタリとやんだそうだ。今までにない静けさが人々を包み込む中で、兵士たちは「こんなに静かな夜があるのか」とその静けさの中でしばし安らぎを与えられた。
すると、どうだろう。敵・味方の双方からクリスマスの讃美歌を歌い出す人が出てきたのだ。今の今まで殺し合ってきた者同士が、夜の静けさの中でクリスマスの讃美歌を歌い、不安と同時にひと時の安らぎを与えられたのである。
明日、命を失うかもしれない若者たちに、ひと時の平和が訪れ、たった一日の平和、戦場で迎えたクリスマスになった。
生命を奪い合う地獄の中で、学生たちは手記を残したのが先の本に纏められた。ひと時の平和でも生み出すことができた、その「できた」という喜び、その可能性、希望が生まれたことを知らされる。そのひと時が一日になり、二日が三日になり、そして戦いをやめて平和を生み出すこともできるのではないかと思う。

これは幻や夢ではない。イエスを通して知らされる神の愛と平和に思いを寄せ、銃に代えて讃美を奏で、どれほど厳しくても、どれほど闇が深くても、その現実の中で必ず戦いを終わらせる「希望」があることを知らされる。「光は闇の中に輝いている!」。このことを忘れずに、新年を迎えて生きていきたい。

2017年12月3日日曜日

「心静かに」クリスマスを迎えたい



       牧師 山口 雅弘  

アドベント・待降節の礼拝が始まった。「待降節」という言葉は、中世時代の教会が使用していたラテン語の「アドベント(到来する)」に由来し(今もカトリック教会が使用)、イエスがこの世に「到来する」ことを「待ち望む」期間を示すようになった。しかし、イエスが誕生しておそらく1~2世紀以上の間、「クリスマス礼拝」を捧げることはなかったようである。最初に語られ記されたマルコ福音書、またパウロの手紙には「イエス誕生」の出来事が記されていないことからも推察できる。
しかし、イエスのこの世での生き様と十字架の死、イースターを記念して礼拝を捧げられるにつれ、そのイエスはどのように誕生したのかということが大切な関心事になっていった。そのためにキリスト者は、「救い主」誕生についてヘブル語聖書(旧約)で何が示されているかを懸命に学び、ガリラヤの各地でどのようなイエス誕生の物語が伝えられてきたかを集めて語り継がれるようになったのである。
やがて世々の教会は、イースター、ペンテコステ(教会の誕生)と並んでクリスマスを大切な礼拝の時として捧げるようになった(しかし、今でもクリスマスを祝わない宗派もある)。
私たちは、信仰の先達者たちの祈りとイエス誕生の物語を受け継ぎ、神がイエスを「最大のプレゼント」として私たちに贈って下さったことを感謝し、クリスマス礼拝を捧げたい。それだけに、問題が渦巻く社会と騒がしい商戦の現実の中でこそ、できる限り「心静かに」クリスマスを待ち望み、クリスマス礼拝をこそ大切な「時」として迎えたい。
信仰の先達者は、自分の人生が変えられたイエスの生き様とその誕生の喜びを何としても語り伝えようとしたのであろう。日本にキリスト教が語り伝えられて以来、長い間クリスマスは祝われなかったようである。特に個人的な悩み・苦しみに加え、キリシタン迫害の嵐、また2回の世界大戦の時代にキリスト者迫害が起きる中で、必死に耐える信仰の力を人々に与えたのはイエスの十字架への生き様であった。信仰の先達者を突き動かし、イエスによって生かされた人々がイエスを「語り伝える」歴史があるからこそ、私たちが今「クリスマス礼拝」を喜びと感謝をもって捧げられることを覚えたい。
私たちの人生の途上において、「今年のクリスマス礼拝」を捧げることができ、イエスとの新たな出会いを与えられることを心から感謝し、他の人にイエスの誕生を「語り伝えて」いきたい。アドベントの時を「心静かに」礼拝する時にし、多くの人をクリスマス礼拝に誘って喜びと感謝を分かち合いたい。

2017年8月6日日曜日

夏の暑い朝―平和聖日を覚えて

牧師 山口 雅弘

1945年8月6日(月)、雲一つない快晴の日、米軍爆撃機「エノラ・ゲイ」が「リトルボーイ」という原子爆弾を搭載し広島の上空にやってきた。8時15分、ついに人類史上初の原子爆弾が投下された。地上600メートルの上空で閃光を放ち、火の玉が炸裂。後に「ピカドン」と呼ばれるようになった。火球の中心温度は100万度を超え、爆心地周辺の地表温度は3000~4000度に達したという。いくら想像力を働かせても、このことを思い描くことはできない。しかし丸木位里・俊ご夫妻は35年かけて、広島の地獄を「原爆の図」に描いている。14万人以上の命が一瞬にして奪われ、原爆による被災者また放射能被害者は今も苦しんでいる。

戦後、広島の地に「原子力発電所」を建設する案が浮上したという。原子力の開発継続を被爆地の広島で行おうとしたとのことである。「原爆と原発」はそもそも結びついていることを知らされる。だから日本政府と企業は、原子力発電をやめようとしないのであろうか。人間はどこまでも「悪魔」になれるのかと思わざるを得ない。それを許す私たちはどうであろうか。

私たちの地球では、絶えずどこかで必ず朝を迎える人がいる。人だけではなく、生きとし生けるものすべてが朝を迎える。それは希望の朝であろうか。それとも哀しみや苦しみの朝、一瞬にして命を奪う朝であろうか。

グァムは、「常夏の楽園」と知られ、そこで迎える朝は言葉を失うほどすばらしいそうだ。年間100万人以上の日本人が「常夏の島」グァムを訪れるという。しかし70数年前、日本軍がグァムに進撃し、「大宮島」と改名し支配していた。1944年7月、5万人の米軍が反撃し、日本軍2万人が「玉砕」した。多くの民間人や島民も殺され、環境も破壊された。グァムの北サイパン沖のテニアン島から、広島、長崎への原爆搭載機が出撃したのである。

フィリピンの山々やジャングルを逃げまわった人々、中国や朝鮮半島で戦火におびえ殺されていった人々、また沖縄の血で染まる海に身を投じ、ガマ(洞窟)の中で声を潜めていた人々、その人々が迎えた暑い夏の朝はどんな朝だったのだろう。グァムが「平和の楽園」と呼ばれ、沖縄はリゾート地になっているが、歴史の現実を忘れ、今も沖縄の人々は不安の朝を迎えている。再び地獄の朝を迎え、人々が犠牲にならないとも限らない。

「忘却や無関心」と闘うことは、神の被造物すべての生命を大切にし、地球環境を大切にすることにつながる。このことを反芻しながら、暑い夏に弱い私は「ダルイ」とへばっている自分を情けなく思う。

2017年5月21日日曜日

あなたはどこにいるのか?

牧師 山口 雅弘



私たちは何となくあわただしく毎日を過ごしている。持て余すほどの時間があるのに、一所懸命になれることがなく毎日を過ごす人もいるだろう。また、病気などで何かしたくてもできない状態にいる人もいる。「時間」は万人に等しく一日24時間与えられているが、一日の時間の使い方、その過ごし方の積み重ねによって、それぞれの人生はずいぶん違ったものになるだろう。

少し前になるが、「人生の時間割」とも言うべき興味深い記録を読んだことがある。平均的アメリカ人の生涯が79年だとすれば(2014年の調査)、人生を次のように過ごしているという。 ― 食事に7年(準備・片づけを含む)、仕事に12年、娯楽に8年(仕事の付き合いではなく)、睡眠時間24年、おしゃべり3年、洗面・化粧・着替えなど5年半、そして教会に6カ月 ― これは比較的、教会に行くのが当然と考えるアメリカ人の統計だそうである。

私たちの場合はどうであろうか? 生涯の1/3を寝て暮らすのは何とももったいない気がするが、他のことに使う時間とその中味を見直す必要があるかも知れない。
一日単位で見ると、「一日の大切さ」をさほど感じないで、無意味なことに時間を費やして平気でいられることが多い。時には、無意味なことをすることも必要だと思うが、その結果の人生になるとすれば、豊かな人生を歩んでいると言えるだろうか。

面白おかしく日々を過ごすことができればそれも意味があるだろう。娯楽や遊び、また旅も人生を豊かにする。仕事に熱中するのもよい。その人にとって「大切なこと」を求めるのもよい。どれもこれもが、真実に自分の人生を豊かにし、有意義と思えるものならばなおのこと良い。

しかし、時として虚しさを感じ、生きがいを感じられなくて大切な「時間」が失われていくと思うこともあるだろう。そして、「死」によって地上のすべてが終わるとすれば…。

「あなたは、またあなたの大切な人はどこにいるのか」と神の問いかけと招きがあることを聖書は語る(創世記4章、他)。その招きに応えて神に立ち帰り、日曜日の数時間を、生涯の何時間かを礼拝を捧げるために用いることができたら、人生が変わるかも知れないであろう。