2015年10月11日日曜日

神が見ておられる

牧師 山口 雅弘

 「神が見ておられる」、このことはどんなに大きな慰めになり、励ましになるだろうか。他の人が自分をどのように見ようと、どう評価しようと、誰にも分かってもらえなくても、「神は見ていて下さる」。たとえ、人との関係がもつれ、孤独を抱えていようと、弱さや病や老いの中で不安と哀しみに心がふさがれていても、「神は見ていて下さる」というのである。

 同時にこのことは、私たちに厳しく迫ってくることがある。誰が見ていなくても、自分の思いと行ないを神は見通し、心の奥底まで「見ておられる」。

 このことを意識し自覚することは、とても大切になるだろう。特に、互いの状況を想い見ず「優しい心」を持てないで、互いに批判・非難することが多い現実の中で重要になる。トゲトゲした人間関係の中で、さらに個人的にも民族的にも、国の間においても争いやぶつかり合いが絶えないとすれば、「神が見ておられる」ことを意識し自覚することは、私たちの生き方や関係を前向きに豊かにする可能性を秘めていると言えるだろう。

 ドイツのケルン市に、有名な大聖堂がある。157メートルもある高い塔が二つそびえている。1248年に起工され、632年かけて完成されたと聞くから驚きだ。教会の建築をめぐって、次のような言い伝えが残されている。塔の一番高い所で、危険を省みず一所懸命に彫刻している職人に、ある人が尋ねたそうだ。「そんな危険な所で、生命をかけ、時間をかけて彫刻しても、下からは何も見えない。それほど一所懸命にしても無駄なのに、どうしてそこまでするのか」と。職人は、「人には見えなくても、神は見ていて下さる」と答えたと言う。そしてまた、黙々と自分にできることを続けたそうだ。

 私自身、「自分を棚に上げて」人を評価・批判し、悪く思われないように人の目を意識してしまうことがある。そのことによって不自由になり、不満が心をふさぎ、無理解のゆえに人を傷つけてしまうのだろう。もっと自由に、大らかに、自分のできることをしていきたいと願う。

 「神は見ていて下さる」ことを、四六時中、意識していては息が詰まるだろう。けれども私たちは、見えない神にしばし思いをそそぐ生き方の中から、慰めや勇気、また励ましや希望を与えられることは確かである。同時に、悔い改めや新しく生き始めることを迫られる厳しさも示される。

 見える物や人の言動に縛られる現実の中で、見えない神がいつも私たち一人一人を「見ていて下さる」ことを自覚し、人との関わりを豊かに築いていけたらどんなによいだろうか。