2015年4月26日日曜日

パソコンが使えなくても

牧師 山口 雅弘

  かつてパソコンが世に出始めた頃、時代の先端をいくと自負していた人から、「山口先生、まだパソコンを使わないのですか」とからかわれたことがある。その後、流行にはすぐ乗りたくない天邪鬼な私に、同僚の牧師たちからも同じように言われたことを思い出す。ずいぶん経ってからだが、私もパソコンを購入し、文章を作成する便利な道具として使っている。

  少し前だが、テレビで、パソコンや携帯電話のスマートフォンを使えない父親に、娘が「時代は変わったのよ」と揶揄して語る様子を見たことがある(私もスマホを使っていない)。なぜか、心が寂しくなる気がした。

  世の中すべてが早く進み、確かに便利になっている。それ自体を否定はできないであろう。文明の利器によって、どれほど助かっている人が多いかを思うからである。

  同時に、いつの間にか最先端の機器が身の回りにあふれ、合理的なものが優先され、それについて行けない人々は取り残されていく社会になっているのではないだろうか。早く話せない人、思うように手足を動かせない人、心身に障がいをもつ人、お年寄り、様々な弱さを持つ人々は、その人間性まで軽く見られ、無視されている気がしてならない。

  先日、牧師の集まりで「主の祈り」を共に祈った時、その早いこと、超特急で早口言葉のような祈りであった。「これでは、ゆっくりにしか話せない人と共に祈れませんね」と「さわやかに」言わずにおれなかった。ほとんどの牧師が頷いたので、「さわやかに」聞いてくれたと思いホッとした。かく言う私自身、最近、多くのことを語りたいために早口でメッセージを語る傾向にあると自戒している。
知的な遅れを持つ人と共に生きる牧師が、次のように訴えている。見えないもの、非合理なものを無視し、見えるもの、合理的なもの、新しいものだけが優先される社会は、貧しい社会と言わざるを得ないと。確かに、心豊かな文化、愛、優しい心を持たない社会になると、人間だけでなく、自然も動植物も滅び、多様なものの共生の道が閉ざされてしまうであろう。

  私たちは、見えない神に思いを向けながら、小さくされ弱さを抱えている人、社会の動きから取り残されていく人、「強い者」の犠牲にされていく人、悩み苦しみ・愛を必要とする人と、愚直なまでに共に生きていきたい。イエスがそうであったように。そのような稲城教会として、新たな思いをもって歩み出したい。今日は総会の日。

2015年4月19日日曜日

イースターと教会総会

牧師 山口 雅弘

  イエス・キリストの復活の朝、イエスに従う者たちの間にあったのは喜びというより驚きと不信であった。彼ら・彼女らは、イエスの復活の語りかけを聞いても、「それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」と言われる(ルカ24:11)。失意とイエスを見捨てた自責の中にいる弟子たちが、自らの不信と不確かさを心に抱き、すぐに喜びと確信を持てなかったのは当然であろう。その弟子たちに、私たち自身の姿を重ねて見る思いがする。

  復活のイエスに出会った彼らは、幻想をいだき幻覚を見たのではない。異常体験をしたのでもなく、物理的に目に見える復活のイエスに出会ったのでもない。もちろん、「科学的」にそのように説明する人もいるが、むしろ聖書の物語が強調することは、共にいるイエスを「認めることができず」に落胆する弟子たちの姿、希望を失って散りじりになる中で、「聖書全体にわたり、…説き明かされて」、イエスに「出会った」ことである。つまり、聖書の語りかけ(メッセージ)を通して、復活の生きたイエスとの実存的な出会いを与えられたのである。そのことが、ルカ福音書に示されるエマオ途上の出来事、また他の福音書にも語られている。

  弟子たちは「聖書の言葉」を聞くことを通して、十字架の死に至るまで神の愛に生きたイエスの一つ一つの出来事を心に思い巡らし、決して美化できないイエスの壮絶な死に、イエスを追いやる自分自身を見つめ直していた。そこでイエスの愛を深く想い起こし、罪の深さを心に刻み、その中で、「互いに心が内に燃える」経験を与えられたのであった(ルカ24:32)。

  「教会総会」と言えば、何となく肩苦しく感じ、気後れする人も少なくないであろう。教会がこの世の組織であるからには、宣教計画や諸活動の反省と展望、経済的「運営」のことを検討しなければならない。さらに、教会の歩みの不確かさや不足を思わざるを得ないかも知れない。

  けれども教会総会では、教会に集うすべての人が、教会の歩みの不確かさや弱さの中で「聖書のメッセージ(言葉)」を聞き、祈りをもって新年度に向かって歩み出すことを大切にしたい。「礼拝」を捧げることを中心に、奇をてらったことの実践だけを求めるのではない。復活のイエスに支えられてこそ教会の歩みがあることを互いに「認め」、「互いの心が内に燃える」経験を分かち合う出発の時にしたいと願う。

  神への感謝と祈りがある所に、どのような困難が待ち受けていても、共にいるイエスに応える歩みと希望が与えられる。これは確かである。

2015年4月11日土曜日

感謝の折り目

牧師 山口 雅弘

  稲城教会に招かれて、一年が経った。単身赴任とは言え、生活に必要な物を揃えての引っ越しの準備、着任してすぐに毎週の礼拝の準備に忙殺されてきた。しかし何よりも、私を迎えるために、多くの方々の祈りと備えがあったことを肌で感じることができ嬉しく思う。

  この一年を振り返ると、長くもありあっという間に過ぎ去ったようにも感じる。人との新しい出会いも与えられている。地上でのお別れをし、神のもとに送った方々もいる。多くの方の喜びや悲しみ、切実な祈りや願いを知らされる中で、礼拝で語るメッセージは、教会の現実とそこに連なる人々との関係で生まれることをしみじみ感じさせられている。また、様々な課題や問題に直面し、予想もしていなかった教会のこれまでの歩みと事情にたじろいだりもしてきた。

  にもかかわらず、稲城教会の方々と楽しく歩んでくることができ、神に心から感謝せざるを得ない。
  全国にある大方の教会では、複数の牧師や事務員がいる大きな教会とは違い、牧師は「何でも屋」になって色々なことをしているだろう。不器用な私にとって、礼拝や集会などの準備以外に、庶務は意外に時間を必要とする。様々な方との面談、訪問、便りで安否を尋ねることも、大切な働きになる。
  その中で、教会の方々や役員の方々が、掃除に始まり、礼拝堂に飾る花の準備や庭の花の手入れ、営繕の働きなどをして下さっていることを感謝したい。実務ができなくても、礼拝に来られない方を覚えて祈り、教会の働きを支えるために献金し、礼拝に可能な限り参加する方々がいることを感謝したい。
  「牧会」とは何かと問われると、杓子定規に答えられないが、礼拝を含めて、人との関わりの中で「生命と人生を大切にする」すべての事柄が牧会につながると言えるだろう。さらに私は、教会外での活動、人権や社会的な問題に関わること、神学校での教育や研究も大切な働きであると受けとめている。
  この一年、私は何を語り、何をしてきたかを静かに省みたい。イエスが生涯を通して示した神の愛と平和の福音、癒し、権力への挑戦的な生き方などを伝えるのに、力の無さをつくづく思う。同時に、肩の力を抜いて、私自身がもっと「楽しい」日々を過ごすことが必要だと思うこともある。
  現在、聖書の学びで真剣に問われていることを教会でどのように共有するか、稲城教会はこれからどのような歩みをすべきかなど、時間をかけて皆さんと共に考えていきたい。神の働きを現わしていく教会として歩むために、欠けの多い私が用いられますようにと祈りつつ、感謝の折り目としたい。