2015年5月31日日曜日

取り乱しの経験

牧師 山口 雅弘

  しばらく前に、ある方から手紙をいただいた。その方は、礼拝に来たことがないけれど、誰かと何らかのつながりを求めていたのであろう…。

  電話やメールが全盛の時代に、その方は、「手紙」を通して心の内に秘めていたものを語ってきた。おそらく、一字一字に思いを込めて書いたのだろう。とても丁寧な字体だった。

  けれどもその内容は、家族との確執、癒される希望を失った病の苦しみ、先の見えない不安と恐れ、死の予感… を綿々と綴るものであった。

  「答え」をすぐに求めているのではない。簡単に「答え」を見出せるものでもないと思う。「誰か」に、心を取り乱すあるがままの姿をぶつけたかったのかもしれない。私はその手紙を読み、心の叫びを聴き、祈る他ない。

  人間だれだってみっともないものだ。何もかもきちっと整理できるものではない。人生において、どうにもならないことにぶつかり、途方に暮れることが誰にでもある。不条理に打ちのめされ、貝のように硬い殻を閉じて、人知れず泣くしかない時もある。希望さえ見出せない時、人はオロオロするまでに取り乱し、その重荷につぶされそうになる。その時は、自分のことしか祈れない。否、その祈りさえ言葉にならないこともある。

  そのような時、その人に寄り添って一緒に哀しみ、辛い思いを少しでも共にしようとする他ない。その生き方を抜きにして、重荷を背負う人に向かって教条的な教えや神学用語にちりばめられた「言葉」を語る者は、しばしば自分の目の前にいる「生身の人間」に向き合っていないのかも知れない。自戒せざるを得ない。

  けれども考えてみれば、自分ではどうすることもできず、オロオロするほどに取り乱す人は、自分の心の闇から搾り出すように、言葉にならない「うめき」のような神への「祈り」を与えられるのであろう。

  取り乱しの経験は、牧師であろうとなかろうと、いつも神の前の自分を見直す時になる。そして、神にも人にも取り繕うことができない、裸の自分を神の前に差し出す時になるのであろう。
自分の弱さを知らされ、心の内にある闇を見つめる時、あるがままの自分になって「祈り求める」時、神を見上げることができる。

  そして「いつしか」、不思議なほどに「平安」を与えられ、心の縛りが解き放たれ、明るい思いをさえ与えられることがある。祈りをぶつけることができる神がおられることは、何と幸いであろうか。

2015年5月17日日曜日

神の前に独り、そして…(ペンテコステに寄せて)

牧師 山口 雅弘

  次週の24日(日)は、ペンテコステ・教会創立を覚えて、子ども中心のメッセージを分かち合いながら、讃美と感謝の礼拝を捧げる予定である。また、水田洋美さんが稲城教会に転会されることを、心から感謝したい。

  教会には色々な方が訪れ、あるいは電話で、その方が抱えるぎりぎりの問題や悩み・苦しみを話して下さる。私は誠実に聞くだけで、心痛めながら祈るほかないことが多い。また、病気や加齢、ご家族の介護などのために礼拝を共にできない方がおられる。教会の内外を問わず、様々な方とその家族が、心身ともに支えられるようにと祈らざるを得ない。

  私たち相互の人間関係において、互いの励ましと祈り合い、また愛の行ないが心豊かなものを生み出すことは、神による大きな祝福であろう。

  同時に、人間関係ほど不安定で、不確かなものもない。夫婦や家族、また友人や知人などの間にすれ違いや争いが起き、憎しみが生まれ、別れが絶えない。教会も例外ではない。神に支えられ生かされている者同士であるが、私たちは皆「独り」であるという厳粛な事実の中に生きている。

  人は本来、「神の前に独りである」ことを自覚し、神の前に自らを省みる必要があるだろう。そして、自分の「孤独」に目覚めるならば、共に生きていこうという新しい前向きな人間関係も生まれる可能性がある。

  最初期のキリスト者は、自らの破れと弱さに打ちのめされ、ローマ帝国の過酷な支配、またユダヤ教の宗教的な圧迫によって様々な苦しみを強いられていた。そのことが、個人的な人間関係や家族の関係にも直接・間接にしわ寄せとなって現れていた。キリスト者は、社会的にも個人的な問題においても、それらの問題と闘うことに疲れ、悲痛な孤独の中にいた。

  しかし、そうであればこそ心を高くあげ、神に向かって祈りつつ生きようとしていた。独りであることを自覚し、しかも共に集まり礼拝を捧げ、祈っていた。その時に、人知を越えた神の力(聖霊の働き)を与えられ、立ち上がることができた。それがペンテコステの出来事であった。そして、小さな「教会」が誕生した。小さくても、尊い生命と人生を神に与えられ、生かされる者が教会として歩み出すことができた。そのことを、使徒行伝2章は、おどろおどろしい表現を通して、何としても伝えたかったのであろう。

  私たちは、それぞれが重荷や悩み・苦しみを持ちながらも、神の前に独りぬかずき、そして共に神に祈り、礼拝を捧げたい。その礼拝によって、すべてのことを始める稲城教会でありたいと願ってやまない。

2015年5月3日日曜日

言葉の隙間(すきま)を埋めるには

牧師 山口 雅弘

  先週、私たちは教会総会を開き、新年度に向けて歩み出した。稲城の地にたてられた教会として、一人一人が社会の中で神の愛と平和を宣べ伝え、一人でも多くの人を教会に招き、共に礼拝を捧げていきたい。そのために、私たち自身が礼拝を大切に捧げ、家族や友人、また知人に「教会に一緒に行ってみませんか」と声をかける一年でありたい。

  私たちが「伝道」する際に、自分の意志や希望を伝え、理解を深め合うための一つの手段として「言葉」がある。語り・聞く、書き・読むにしても、その言葉は、決して抽象的なものとして存在しない。言葉の背後には、言葉を用いる人の生活や生きる姿勢、人柄や人格などがあり、それを想い見ながら言葉の受けとめ合いをすることが大切であろう。

  私たちが生まれて今日まで、どれほどの人と触れ合い、出会ってきただろうか。その一人一人と言葉を媒介にして互いに知り合い、理解し合ってきたと思う。しかし、現代的な特徴として、互いのつながりやコミュニケーションをなかなか持てず、一人一人が個の内に閉じこもってしまうことが指摘されている。「孤独」ではなく、「孤立」してしまうこともある

  言葉は確かに不完全で、欠けや限界を伴う。何かを伝える言葉が、同時に何かを隠し、十分に自分の意志を語れず、さらに、自分の意図に反して誤解や偽りさえ生むこともある。そのために多くの行き違いが生じ、傷つけ合うことも少なくない。そのことによって、一人一人は自分の正直な思いを心に潜め、「孤立」に引きこもっていくのかも知れない。傷つけ、また傷つきたくないからであろう。

  言葉の不完全さ、またその隙間を埋めるにはどうしたらよいのだろう。必要なことは、言葉を語りかける具体的な人を思いみる想像力、その人への思いやりであり、また「信頼」を欠くことができないと思う。もし言葉を交わす人々の間に、互いの思いやりや信頼を必要としないならば、言葉の隙間はなかなか埋まらないだろう。愛し合う、支え合う、生かし合う、祈り合う、共に生きるなど、もし語り合う者の間に思いやりや信頼がなければ、ただ虚しく響くものになってしまいかねない。
  時は流れ、人は移り変わる。言葉も飛び散っていく。それだけに、言葉が持つ豊かさを互いに生かし合い、信頼関係を築いていくことが大切である。そのためにこそ、神の前に独り進み出て、新しく生きるために自らを省み、神の語りかけを聴いて生きていきたい。教会は、そのような場であろう。