2014年7月27日日曜日

戦争の代わりに音楽を(1)

牧師  山口 雅弘

今から7年前の夏、ドイツのベルリンで、ダニエル・バレンボイムの指揮のもとに「東西ディヴァン・オーケストラ」の演奏会があった。音楽会のテーマは、「戦争の代わりに音楽を」であった。私はその折に、ベトナム戦争の時に、「愛し合おうではないか、戦争ではなくて」と言われていたことを思い出した。

バレンボイムは、イスラエルのパレスチナ侵略とそこに住む人々の殺戮に批判の声を挙げてきた人である。また、「反ユダヤ主義」というレッテルも貼られることがあった。彼は、それでも仲間と共に「自分のできること」をし、「命の尊さ」を音楽をも通して訴え続けてきた人である。

彼が指揮したオーケストラは、ユダヤ人のピアニストで指揮者であるダニエル・バレンボイムと、パレスチナ人の思想家で大江健三郎とも親交のあったエドワード・サイード(故人)が協力して創設した管弦楽団である。半世紀以上にも及ぶパレスチナ紛争、あの泥沼のような争いの中で、何とか音楽を通じて相互理解と和解を実現できないだろうか? そのことをこの二人が考えたというのだ。
そこで色々な人の協力を得、多くの苦労の連続の中で、その夢の実現に向けて努力し、このオーケストラを作り、演奏活動を始めたそうだ。

先ずバレンボイムとサイード、またその仲間たちは、パレスチナと、その他アラブ諸国の中から若い音楽家を招く。そしてイスラエルの音楽家たちも招く。本当ならば敵対している国の人たちである。事実、演奏会に至るまでに多くの問題があったようだ。

しかし、その音楽家たちやスタッフの人たちは「招き」に応え、互いの違いを受け入れ合いながら「一つのハーモニー」を奏でる音楽を生み出していこうとした。そのことは、非常に勇気ある試みであろう。多くの人たちは、それは無謀な企画だと批判の声をあげたと聞く。
私はこの話を聞き、今日の世界、また私たちの日常生活の中で、「愛」とはそのようにして実現していくのではないかと思わされた。(続く)

2014年7月20日日曜日

小指の思い

牧師 山口 雅弘

好きなピアノ曲を聞くと、その音に引きずり込まれることがある。流れるような音のつながりと強弱、そのリズムに酔いしれながら、自分も弾けるかも知れないと錯覚してしまう。そこでピアノの前に座り、知っている曲を弾き始めると、たちまちその幻想は打ち砕かれる。

ピアノのキーにふれて、どうにも自由にならないのが小指。特に左手の小指は、私に逆らっているかのように動いてくれない。技量がないのだから仕方がないと思うが、ピアノという楽器はどうも、私のすべての指に「平等な」動きを強いているような「ひがみ」をもってしまう。

この世のあらゆることにも、「小指」に強いるような要求がありはしないだろうか。親指にも小指にも、同じことが求められ、親指のような働きができない人は隅に追いやられていく。それは哀しいことだ。小指が小指として一生懸命に生きていても、小指の個性は奪われていく。そして、社会の隅に追いやられ差別されることも少なくない。「差別」は、放射能汚染のように目に見えないまま、人の心と体をむしばんでいくのだろう。それは、差別する側の無関心・無感覚と、差別される側の諦めによって、いつしか差別の現実が「当り前のこと」になり、私たちの常識を形づくるのかも知れない。その一つの指標に「差別用語」がある。

言葉は人の心を表す指標と言える。言葉は、それを使う人の人間性、人間観、人生観をも表す。このようにして、寿や山谷に生きる人が「浮浪者」「怠け者」「飲んだくれ」などと呼ばれる・・・。最近、「寿の浮浪者が路上で死んだ」というニュースを聞き、哀しい思いになった。

本当は、弱く小さき人々を「小指」に譬えるのは失礼なほど、皆たくましく生きようとしている。にもかかわらず、個性と弱さを抱えた一人の人間である前に、社会的に小指にさせられていることも事実である。親指も小指も夫々の個性と違いを持つ人として支え合い、私たち自身「共に生きる者」という言葉にふさわしい生き方ができたら、きっと私たちの間に喜びの輪が広がるであろう。それにしても、小指が一・二度軽くふれるだけの素敵な曲はないだろうか。 

2014年7月13日日曜日

『聖書』との格闘

牧師 山口 雅弘

毎週の礼拝で、聖書のメッセージを語ることは、私にとって「聖書」と格闘をしているようなものである。聖書を語り継ぎ、それを書き記した信仰の先達者たちの「宣教の言葉」の中に、神が示す生命のメッセージを聴こうとする格闘と言えるかもしれない。その格闘なしに、聖書のメッセージを語ることはできないとさえ思わされている。たとえ私の語る言葉が欠けだらけであっても、また聴く人がウツラウツラして聖書のメッセージへの熱い思いや緊張感を失うことがあると知りつつも、聖書と取り組むことなしに礼拝で語ることはできない。

聖書を読んでいると、まさに聖書が生きて語りかけているという思いを強くされることが少なくない。同時に、一所懸命に何かを求め願っていても、突き放された気持ちで聖書を閉じることもある。「聖書」は、「私」の思い通りにならないと思うこともしばしばである。その中で、たった一言の言葉でもいい、深く自分の心に染み入る個所に出会い、それが聴く人に伝わるとすれば、何にも代えがたい喜びになるであろう。

同時に、心に響き魂を揺り動かす聖書の言葉に出会っても、それがいつも私たちにとって心地よいものになるとは限らない。慰めと励まし、また癒しと希望を与えられると共に、それぞれの期待や願いがくつがえされ、深い反省を促され、問いかけを与えられることもある。

特定の歴史の中で人々が語り継ぎ、書き記しまとめた聖書であるが、その聖書を通して語りかける主体は神であり、イエスであることを心に刻みたい。その聖書を読み、学び、常に新しくそこに示される生命のメッセージを求める心を持てるように祈らざるを得ない。そうすれば、私たちは必ず、それぞれ自分にとって時機にかなった救いの言葉を与えられるであろう。

【就任式と感謝会のスライド集】 松村寛さんが牧師就任式と感謝会のスライド63枚をまとめて下さいました。実に見事な写真集です。コンピューターで見ることができますが、何らかの方法で皆さんと共に見ることができたらと願っています。松村さんのお働きを感謝します。