2014年4月27日日曜日

教会での葬儀について

牧師 山口 雅弘

先日の受難週を迎え、中川雪子さんの葬儀を教会で行った。人生の最期をご家庭で聖書を読み祈りを持って過ごし(前夜式)、教会でご遺族また教会の方々の祈りと賛美に包まれて地上でのお別れの時を過ごした(葬儀)。神のもとへの凱旋の時であった。また、神に与えられた生命と死をめぐり、人の生き死について色々なことを考えさせられた。
誰にでも必ず「死」は訪れる。その死はいつ来るかわからない上に、死を迎えると何らかの「葬儀」が行なわれる。しかも、葬儀に直接関わり心を配るのは当人ではなく、遺族・関係者である。その一人である司式者として、教会での葬儀について改めて考えてみた。
教会での葬儀は、亡くなった方との地上での最後のお別れとして、遺族また私たちにとって大切な時である。故人の信仰とその生涯を思い巡らし、その人のすべてを神にゆだねる時である。また、どのような人をも神はあるがままで受け入れ、生かして下さったことを想い、遺族に慰めを祈り求める「礼拝の時」でもある。であるとすれば、教会では、特別の事情や緊急の場合を除き、死者や遺族の信仰、また私たちの故人への想いがどうであろうとかまわない葬儀は行ない得ないであろう。
ここで問題になるのは、故人が教会に来ておらず遺族が信仰者である場合、また故人が教会に来ていても遺族が教会に来ていない場合である。
後者の場合、教会に来ている方は、生前に「自分の葬儀」について家族に希望を伝えておく必要があるだろう。葬儀に直接関わるのは遺族だからだ。前者の場合、家族の人が教会に連なるように祈りつつ、自分が行っている教会のこと、また「葬儀」について機会を見て話し合うことが必要である。それがかなわない場合、牧師・役員に葬儀について相談することが望ましい。同時に、故人が違う信仰をもっていた場合、そのことを先ず尊重して熟慮し、遺族の希望をよく聞く必要があろう。
 愛する方の死に直面することほど哀しく辛いものはない。教会の葬儀では、「別れ」の悲しみに沈む方に神による慰めと励ましがあるように心から祈り、また「自分の生と死」を見つめ直し、神の導きを祈り求める。さらに、生をも死をも支配する神に信頼し、「神が与え、神が取られる。神の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)と神に思いを向け、すべてをゆだねる時でありたいと願う。神のもとでの大切な最後のお別れであるだけに、葬儀を頼むという都合だけが優先するならば、寂しい限りである。

2014年4月20日日曜日

教会のドラマ(2)

牧師 山口 雅弘

 教会が社会の中で「小さくされ・弱くされた人」、痛み・哀しみを抱える人と共に生きようとすれば、「会員」や礼拝・集会の出席者数に表われない、「教会のドラマ」を地下で支える人々がいることを自覚したい。
ここで、最初期の教会の姿を垣間見たい。「教会」を表す言葉は、「集められた者の集い」を意味する「エクレシア」というギリシャ語である。最初期のキリスト者は、自分たちの小さな群れを、神に「呼び集められ」生かされる者の集いであると言い表した。その教会は、まさに少数者の集いであり、弱さや不完全さ、また苦難があろうとも、しかし神に「呼び集められ」生かされる共同体である、このことを自覚し歩み続けた。そして何よりも大切なことは、人を差別し分断するあらゆる垣根を越えて、誰もが自分の「居場所」をもてるように、そのヴィジョンと実践を「エクレシア」と言い表したのである。
最初期の教会の姿を見ると、実に多様だった。また3世紀頃になるまで、ほとんどの教会は独自の建物を持っていなかった。人々は、ユダヤ教の会堂を借りて集まり、あるいは「家の教会」と呼ばれるように個人の家に集まり礼拝を捧げ、また川のほとりで礼拝を捧げる教会もあった。フィリピの教会は、おそらく川のほとりで祈りと礼拝を捧げる集会として始まったと推定される。そのエクレシアの群れには、子どもから年配の老若男女、壮健な人も病気・障がいを持つ人もいて、様々な違いを持つ人々が厳しい時代の中で共に生きていこうとしていた。
さらに最初期のエクレシアは、建物のみならず、牧師すらいなかった。すべてが無い無い尽くしから始まったのである。小さなエクレシアの群れには、組織や役職もない。もちろん、総会も決算総会もなかった。このことは、具体的な教会運営から見れば大変なことであろう。
しかしエクレシアの人々は、神と共に、いつも「未来」に向かって生きる「未来志向」の信仰と心意気を持ち続けた。そのようにして、神を讃美・礼拝する教会として歩み続けたのである。また、神に生かされるからこそ「今」がある、と自覚したのであろう。私たちは、その信仰と心意気を受け継いでいきたいものである。
  イエスは、当時の社会の中で小さく弱くされた人の友として生き抜いた。その人々が「教会の群れ」を形づくっていったのである。 教会のドラマを根底から支えるイエスのドラマに目をむけ、そこに参加する稲城教会でありたい。

2014年4月13日日曜日

教会のドラマ(1)

牧師 山口 雅弘

 私は4月1日(火)より稲城教会に遣わされた。教会の皆さまと新しく歩み出すために「いざ、出で行かん!」と感慨深い思いを持つ。そこで教会の働きの一つとして、この「牧師の徒然草」を書き始めたい。教会の現場と聖書・イエスの捉え直し(聖書学)、社会の諸問題解決の働きとの橋渡しをしながら、「教会」についての考えの一端を述べたい。
 私の故郷の札幌では、春になると草花が一斉に生命を輝かし始める。その時、生命は目に見えない地下にあることを知らされる。目に見える地上の働き以上に、壮大なドラマが地下で展開しているのだろう。
 キリスト教界には「教勢」という言葉がある。教会に集う人の数などでそれを表してきた。大切なことは、人数・経済的規模、宣教の働きなどをめぐる「議論」に留まらない。人数や経済力が増すことを真剣に願いながら、宣教とは何かを問いつつ、量も質も一教会だけでは計れない様々な地下の営みがあることを心に留めたい。
教会がこの社会の中で「小さくされ・弱くされた人」、痛み・哀しみを抱える人と共に生きようとすれば、「会員」や礼拝・集会の出席者の数に表われない、「教会のドラマ」を地下で支える人々がいることを自覚したい。教会に来ることができないまでも教会のために祈り、献金して支える人々、教会外の支援者、いわゆる「シンパ」などがそうである。
イエスは、当時の社会の中で小さく弱くされた人の友として生き抜いた。その人々が「教会の群れ」を形づくっていったのである。(続 く)