2016年3月20日日曜日

未来への希望: 『夜明け』

牧師 山口 雅弘



イエスの受難を思いめぐらしていて、ナチス・ドイツによる受難者の一人を思い起こした。エリ・ヴィゼールである。彼は、ハンガリーで正統派ユダヤ人の家庭に生まれ、1944年に強制収容所に入れられた。両親の生命は奪われ、1945年、このユダヤ人少年はアウシュヴィツの地獄から奇跡的に生きて帰ることができた。少年は大人に成長し、作家になった。しかし、何年もの間、アウシュビッツの地獄を書くことはできなかったという。

  彼が収容所に入れられた時は16歳足らずであった。彼が、あの惨劇の炎の中を生き延びた事実だけでも驚きである。彼はその辛い経験を見つめなおし、必至に「未来」に向かって生きようとした。そして、苦闘の末に地獄の経験を記録として一冊の本に書き上げた。それが、『夜』という本である。辛くても現実を記憶し、未来に向けて生きるために、血を振り絞るような激白として描いたと言ってよいだろう。

  ナチス・ドイツが人間を家畜以下に扱い、ガス室に入れる中で、彼は叫び続ける。「神よ、人間をいつ人間にして下さるのですか」と。

  ヴィゼ―ルはその後、『夜明け』という小説を発表した。これはフィクション(虚構)であるが、あの極限状況を生きた彼は、自分の分身として主人公を描き、あるイギリスの将校を殺すという立場に身を置く。つまり、殺されていく者から、人を殺す側に自分を置くのである。イギリス人将校を殺す理由は何もない。しかし、処刑しなければならない。彼は苦しみ抜き、再び、「神よ、人間をいつ人間にして下さるのですか」と問うのである。

  翻訳者の解説は、彼が「神に」問うている根本的な所を見落としていると私は思う。この本は、文学として人間のギリギリのところを描いているが、作者がここで「神に」問いかけ、そのことをこそ問題にしていることが大切なのであろう。

 人間の現実を問いつめるのに、作者は、殺す・殺されることを問題にしている。そのことは、見方を変えれば、「人間は人間を本当に愛することができるのか」、愛し合う関係の中で「生きる」ことができるのか、という問いでもある。ここに、作者と神との必死の関係があり、神への問いがあるのではないだろうか。「神よ、人間をいつ人間にして下さるのですか」と。

 同時にまた、「神」に必死に問いかけることが「できる」、そこに「今」を生き、「夜明け」の希望があることも知らされる。

2016年3月13日日曜日

受難節に寄せて ー 「涙のつぼ」(2)

牧師 山口 雅弘

 イエスの十字架への道を思いながら、「涙のつぼ」というものが世界各地にあることを思い起こした。

 エジブトのカイロにも「涙のつぼ」があるそうだ。私は写真でそれらを見たことがある。小さくさまざまな形の「涙つぼ」の中で、「クレオパトラの涙つぼ」というものに心惹かれた。それはルリの石で作られ、背の高いものだった。興味深いことに、世界最古のブドウの原種で作ったグルジアワインは、「クレオパトラの涙」と呼ばれている。何不自由なく生き、権力を持ったクレオパトラも、独りそっと涙を流してワインを傾けたのだろうとしばし思いめぐらした。


 エジプトだけでなく、古代の中国にも、日本にも「涙つぼ」があったようだ。犬山城に行ったことはないが、天守閣の資料展示の中に「涙つぼ」があり、肉親の死を悼む「涙受けのつぼ」だという説明が付けられていると聞く。実際に使ったのものではないようだが、人の悲しい思いがこの「涙つぼ」に込められているのだろう。

 「涙つぼ」の多くは、特殊な人たちが持つ高価なものではなく、庶民の誰でも手に入れることのできる、つまようじ入れほどの小さな「つぼ」であったようだ。世界の至る所で、このような「涙つぼ」が出てくるのを見ると、人間の哀しみの深さ、広さを「涙つぼ」は示しているのだろう。


 今でこそ「涙つぼ」は作られていないが、依然として人は涙を流し続けている。悲しいことを経験し、苦しい問題に打ちのめされて涙を流す。また、自分の醜さ、なさけなさ、傲慢の罪深さに涙を流すこともある。あるいは、生きることに疲れ果て涙を流し、社会の片隅に追いやられ、差別され、踏みにじられて涙を流す。その涙さえ枯れるほどに、哀しみの底に追いやられることもあるだろう。
人ごとではなく、私たち一人一人も涙を流すことが少なくない。しかし、多くの人が涙の谷間で生きていることを自覚する時に、目の前にそっと涙を流している人がいることに気付かされることがあるのだろう。

 イエスは、人の目から涙をぬぐう方として人を愛す生き方を貫かれた。そして、人を慰め癒すだけでなく、たくましく生きていく力をも与えた。このイエスの愛を、私たちは携えて生きていくように促されている。

2016年3月6日日曜日

受難節に寄せて ー 「涙のつぼ」(1)

牧師 山口 雅弘

  イエスの十字架への道を思いめぐらしながら、ヘブル語聖書「詩編」84篇を読み礼拝メッセージの準備をしていた。その時、「たとえ嘆きの谷を通る時も、そこを泉とするでしょう」という文言に心惹かれた。ある英語の聖書では、「乾き切った谷」としている。元のヘブル語は、乾いた荒れ野の谷を連想させる風景を示している。

  同時にこの言葉は、文語訳で「涙の谷をすぐれども そこをおほくの泉ある所となす」と訳すように、「涙の谷」を意味している。歴史に生きた人々は、乾き切った不毛の谷を通り、何が自分を襲ってくるか分らない不安におびえ、多くの悩みや苦労にどれほど「涙」を流してきたであろうか。その思いが、「嘆きの谷」、「乾き切った谷」、また「涙の谷」という言葉に込められているのであろう。


  人生の旅において、懐にどれほど金銀を持っていても、荒れ果てた山や谷を旅する時、本当に自分を守り支えるものは一体何なのか? どのような人も必ず、嘆きと哀しみの「涙の谷」「嘆きの道」を歩まなければならないことがある。そのような「嘆きの道・涙の谷」を通る時、神への祈りの思いを持ち、神を信頼して精一杯に生きていくことができたら何と幸いであろうか。その時必ず、「生命の神」が私たちと共にいて下さることを知らされる。


  私たちは、それぞれの人生の旅を続けている。その中で、何の苦労も悩みもなく歩み続ける人はいないだろう。思いがけない重荷を背負い、不条理なことにぶつかり、失意のどん底に落とされることがある。病気や障がいに苦しめられることもある。また、年老いて自分の弱さを感じ、若い時には思いもよらなかった色々な不安や思い煩うこともあるだろう。また、人知れず涙を流し、この「嘆きの道・涙の谷」を通っていくことが必ずあると思う。しかし、その「涙の谷・嘆きの道」を歩む中で、平和と生命の根源である神を知らされ、不毛と思えるような中で生命の泉から涌き出る水を与えられることは、何と祝福であろうか。

  エジブトのカイロに「涙のつぼ」というものがあるそうだ。私は写真でそれらを見たことがある。小さくさまざまな形の「涙つぼ」の中で、「クレオパトラの涙つぼ」というものに心惹かれた。これはルリの石で作られ、背の高いものだった。何不自由なく生き、権力を持ったクレオパトラも、一人そっと涙を流したのだろうとしばし思い巡らした。          
(次週に続く)