2014年11月30日日曜日

心静かに、神の愛と平和を求めて

(山口雅弘著 『イエスの道につながって―随想とメッセージ集』の一部を改訂し再録)
牧師 山口 雅弘

  今日から待降節・アドベントが始まる。「待降節」という言葉は、ラテン語の「アドベント(到来する)」に由来し、クリスマスを「待ち望む」期間を示す。世々の教会は、イエス・キリストが私たち自身と私たちの世界のただ中に来て下さることを心にとめ、忙しい生活であってもクリスマスを待ち望み、この期間を大切に過ごしてきた。
  アドベントは、毎年訪れる。しかし「今年も」、この時を迎えられることは、決して当り前のことではない。生命を与えられ「今年も」と言えることを心から感謝したい。
  教会の暦では、一年はアドベントから始まる。そして一年は、二つの部分から成る。前半は、イエスの生涯を「想い起し」礼拝をささげる「時」。すなわち、アドベント・クリスマスに始まり、公現日(一月六日、イエスの公生涯が始まったとされる日)、受難節、復活日を経てペンテコステ(聖霊降臨)に至る期間である。後半は、次のアドベントに至るまで教会の宣教を進める時である。

  ルカ福音書は、イエスが「家畜小屋」の中で生まれたと象徴的に語る。イエス時代には、「馬」は一般的な家畜ではなく、ローマ軍の「戦車」を引く強力な兵器であった。クリスマスには「馬小屋」が付き物と思う人のイメージを壊すかも知れないが、イエス誕生の場所は牛や山羊などを飼う「家畜小屋」であったと考えられる。「兵器庫」ではなく、「家畜小屋」の中でイエスは生まれたと言う方が適切であろう。
  しかしその場所は、人が憩う場ではない。辛く哀しい現実の闇が支配する場に生きる人々の中に、イエスは来られたことを象徴して語るのである。また、闇を生み出す社会の現実に対する抵抗のしるしである。イエスの生涯がそのことを示す。
  イエスは、「かつて」そうであったように「今も」、闇が支配する社会の中に、希望を示す光をもたらした。私たちは、どのような時にも、神が我々と共にいて下さるから絶望しない。
病む社会のただ中に生きるからこそ、私たちは心静かに、神の愛、正義と平和、癒しと希望を祈り求めつつ、アドベントを過ごしたい。

2014年11月16日日曜日

メメント モリ

牧師 山口 雅弘

  『わが涙よ、わが歌となれ』という本が出版されている。牧師の連れ合いであった原崎百子さんの遺作である。彼女は、自分の病気が肺ガンと知らされ、その日からの45日間、43歳で神に召されるまでの深い思索と真摯な生き様を記録した本である。それはまた、地上で生かされた一人の信仰者の証言とも言えるだろう。
  彼女は、4人の幼児を残して死を迎えなければならない不条理の苦しみに突き落とされ、人目をはばかることなく涙を流さざるを得なかった。それでも彼女は、精一杯に神に向き合い、自分の一日一日の人生を大切に生きようとした。
  しかし、一切を神にゆだねて生きようという信仰と、それでもずっと生きていたいという意欲の間で揺れ動き、その現実の中で苦闘する彼女の生の姿を垣間見ることができる。同時に、自分に与えられた生命と人生の「責任」を持って、自分なりに生きようとする彼女の姿勢に、深い感動と励ましを与えられる本である。

  中世の修道士たちが朝一番に口に出す言葉は、「メメント・モリ」という言葉であったと聞く。「汝の死を覚えよ」という意味である。修道士たちは、互いに「限りある生命」を心に刻み、今日を精一杯に神に向き合い、イエスと共に、神と人に仕えて生きようとしたのであろう。

  私たちは誰でも、いつか必ず「自分の死」を迎える。これほど確かなことはない。自分に与えられた地上での「最後の出来事」であろう。自分の死を見つめることは、他者に代わってもらうことのできない自分の生命と人生をもって生きる責任や課題と不可分である。何か大きなことはできなくても、自分らしく生きていきたい。かけがえのない尊い生命と人生を与えられているからである。
  自分の死はまた、自分だけの死ではなく、愛し合う者にとっての辛い現実になる。そしてイエスが示したように、「あなたの魂は今夜の内にも取り去られる」(ルカ12章)とすれば、自分と他者の「いのちをみつめて」、少しでも豊かな喜びと平和を生み出す生き方をしたいものである。「メメント・モリ」という言葉は、そのことを自覚させられる豊かな語りかけであろう。

2014年11月9日日曜日

千の風になって

牧師 山口 雅弘

 先日、祈りと共に永眠者記念礼拝を捧げることができた。礼拝では取り上げなかったが、メッセージの準備の際に次の詩を思い起こしていた。原詩は12行の英語の詩で、作者不明。アメリカ先住民のナバホ族の誰かが作ったという説もある。この詩を訳した新井氏が歌い始め、テノール歌手が歌って有名になった「千の風になって」という詩である。

千の風になって
(新井満氏 翻訳)
 
私のお墓の前で 泣かないで下さい
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないで下さい
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になってあの大きな空を 吹きわたっています
 
千の風に 千の風になってあの大きな空を 吹きわたっています
あの大きな空を 吹きわたっています

 この詩の根本思想はアミニズムに近いだろう。森羅万象に魂が宿り、風や光などあらゆるものに精霊や命が宿っているという宗教観である。キリスト者の中には同意できない人もいるだろう。しかしこの詩には、命と死、また復活の生命を示すものが見られる。聖書が示す「風」は神の聖霊(精霊)を意味し、その「風」の生命によって生かされる人やすべての物を示していると受けとめることができる。

 またこの詩には、大胆な逆転の発想が見られる。と言うのも、「私は死んだけれども、風になり、星や光になって、あなたのそばにいる。私が死んだからといって、もう嘆き哀しまなくてもいい。風や鳥のさえずり等を通して私を感じ、さあ元気を出して生きてほしい…」と、死者が生者を慰め励ましているからだ。だから大切な人を亡くした人の心に訴えるのであろう。