2014年10月12日日曜日

イエスの食事の開放・解放性(2)

牧師 山口 雅弘

  イエスは、宗教的に「罪人」と見なされ「汚れている」と規定されていた人々とこそ食事・聖餐を共にした。世の人々から疎まれ、弱い立場に置かれている人々、心身の病気や不自由を負って苦しむ人、また哀しみ苦しむ人、辛い毎日を生きている人を、イエスはその食事・聖餐に招いた。

  同時に、あなたには「神の国の食事」「神への感謝としての聖餐」に加わる資格や条件がないと言われていた人々と、イエスが神の愛を分かち合う食事・聖餐をしたことは重要である。それは、さまざまな違いや垣根を越えた全く無条件の「喜びと感謝への招き」であった。
 
  聖書の食事・聖餐の場面を見ると、そこには男性だけではなく、当時一人の人間と見られなかった女性や子どもも共にいたことが分かる。イエスにとってその人々との食事は、まさに「神の国の祝宴」を現わすものであり、神の一方的な恵みを感謝する聖餐であった。
 
  またイエスにとって、食事は神への感謝と交わりの基本であり、神の国の雛形、また神の愛と恵みを受ける感謝の祝宴であった。どれほど厳しく辛い毎日を生きていても、粗末な食事であっても、そこで養われ培われるイエスと人々との絆は、聖餐を受ける人々にとって大きな力・励ましになったであろう。その聖餐は、人々の心に刻まれた忘れられない出来事になったに違いない。
同時に、宗教的権力者にとっては、規則を破り、資格や条件を無視する不届き者として許せない出来事であった。
 
  にもかかわらず、イエスが行ない続けた神の恵みへの感謝(ユーカリスト)としての聖餐は、包含的で、すべての人に開かれていた。それが、すべての人を招くイエスの聖餐の本来の姿である。そのことは、イエスの生き方そのものに裏打ちされた実践でもあった。
イエスの生き方そのものを具体化するイエスを中心とする聖餐の交わりは、誰をも排除しない、開放性と解放性を持つことを忘れてはならないであろう。それは、どのような教会として歩むか、その在り方に深く関わることである。

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