2014年5月11日日曜日

歴史の彼方からの“声”

牧師 山口雅弘

先週の「聖書を読み祈る会」の冒頭で、『聖書』を読むことは何千年前の「歴史の彼方からの“声”を聴く」ことであることを話した。それも、そのすべてが「死者たちの声」であり、そこに示される生命の証しをどのように聴き取り、生きた語りかけとして受けとめるかが重要であることを皆で分かち合った。

古い過去の歴史から何を聴き、何を学び、今日を明日へとどのように生きようとするかは、その人がどこに「視点」を置いて学ぼうとするかに深く結びついている。聖書に記されている何千年前の出来事、そこに語られている人々の生き様や出来事を想いめぐらす時、そのことが歴史を越えて「今」の私たちに響き合うことを知らされる。さらに、歴史の中で失われ、聖書に記されることなく隠されてしまったと思われる出来事を、わずかな痕跡を頼りに想い描く時、「歴史の彼方からの静かな声」が聴こえてくることもある。

歴史の中に生きて弱く小さくされた人々、様々な力や出来事によって悩み苦しみ、疲れ果て、打ち倒され、危機的状況の中にある人々に視点・目線を合わせると、厳しく辛い状況にもかかわらず、神の支えと希望を信じて立ち上がり、その中を生きていった人々の「声」が聴こえてくる。たとえそれが「か細い声」であっても、神に支えられて生きた人々の声を聴く時、私たち自身、心打ち震え、大きな励ましを与えられ、人の思いを越えた神の働きがあるという生命のメッセージを与えられる。
また歴史の出来事を探っていくと、ある日、あることが、歴史の大きな転換点を引き起こすきっかけになっていたことを知らされる。人の目には、よもやこのようなことがと思える出来事の中に、あるいは愚かと思える過ちや失敗の中にも神の働きがあり、神が用いて下さることを知らされる。その一人一人によって、歴史は変えられていくのだろう。

イエスに招かれ共に歩む「弟子たち」は、これという取り得のない者ばかりであった。むしろ皆、失敗や過ちを繰り返す者であった。にもかかわらず、その一人一人が、神に用いられ生かされたのである。

人の思いや行ないを越えた神の働きがあることを信じ、歴史の彼方からの「声」を聴こうとするならば、自分の行なっていることがどんなに力なく弱く見えようと、失敗や欠けがあろうとも、神の計画の中にあるということをいつか必ず知らされるであろう。このことを感謝して生きる者でありたい。

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