2014年5月18日日曜日

施しと愛

牧師 山口 雅弘

イエスと弟子たちは、旅の途上において何でその生活を支えていたのだろうか? ガリラヤの村々を旅する前は、イエスは小さい時から農業と共に「木工職人」として働いて食を得、弟子たちも農民や漁師として生活していたと思われる。しかし「枕する所」なく、神の国の福音を宣べ伝え始めてからは、おそらくイエスと同伴者たちは、人々のもてなしや施しをいただいて生活していたのだろう。旅人をもてなし「施し」をすることは、ユダヤ人の大切な行為であったからである。福音書の至る所に、イエスとその一行がさまざまな人の家で食事を共にしていることが語られていることからも容易に想像される。少なくても、「仕事」の成果に見合ったお金や物品をもらって生活したのではなかっただろう。

イエスが殊のほか人を見る眼差しが強く、外面によらずに人の心の奥底を見抜いているのは、さまざまな苦しみ・重荷を背負う人と出会っているからであり、他方、「施し」で生活していたからということも見逃せない。人の心の奥底にある汚さ・愚かさ・傲慢、また優しさや愛は、ものを差し出す時に表われることが多いからである。

イエスは、人の心の底を見れば見るほど、「人間」というものの哀しさ・憐れさを知り、その人間をこそ愛したのである。だから、人の純なる心に接して、イエスは涙を流されたのだろう。

私たちは、イエスの眼差しが、私たちの汚さ・愚かさ、また傲慢に注がれていることに気づかないし、イエスの愛が実に私たち一人一人を全身で受けとめ、あるがままに「受容」しているからこその愛だと知らずにいるのではないだろうか。その極みが、イエスの十字架の出来事に証言されている。「神よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と祈るイエス。少なくても、イエスの十字架に向き合う人々は、イエスの祈りをそのように受けとめたのであろう。

イエスのもとから逃げ去り身を隠す者、見物する者、遊びほうける者、争い合う者、批難し合う者、告げ口する者、噂に興じる者… またあなたも、私も…。そして、赦されることのない過ちと罪を抱えて、「赦したまえ」と祈る他なく、その罪過を背負った者として「受容」されているからこそ新しく生きる道が拓かれていくことを知らされる。

愛をもって生きようとする私たちは、実は愛を受けなければならない身であることを示されるならば、感謝する他ない。

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