2018年7月15日日曜日

「女性は子を産む機械」発言をめぐって(2)

2018年7月15日(牧師 山口 雅弘

先回に続き、聖書の使信に関連して気になっていることを記しておきたい。政府与党の国会議員また自民党幹事長などが「女性はもっと子どもを産むべきだ」と発言し、あるいは「子を産まないほうが幸せに過ごせると考える勝手なことを言う人が増えている」との問題発言が続いた。9年ほど前にも、当時の厚生労働大臣が、女性は「子を産む機械、装置」と発言して辞任に追い込まれた。にもかかわらず、依然として女性差別の発言や行為がなぜ無くならないのであろうか。
このことは、憲法の重要な根幹である「基本的人権」を著しく傷つける行為であり、女性に対する人格否定であることをなぜ理解しないのであろう。

「いのち」は人の思いや計画によって「生産」されるものではないであろう。特定の信仰を持たなくても、どれほど生命科学の技術が「発展」しても「いのち」は神秘にみち、「いのちの誕生」は奇跡に近いと思う人は多い。
さらに、女性に「子を産む機械」の役割を押し付けることによって、色々な事情で子どもを持てない女性やその連れ合い、子を産まないと決断した女性、さらには「結婚」しない女性は「役立たず」であると言っているに等しい。その人々の意志や決断、また気持ちを考えたことがあるのであろうか。

先回も指摘したが、スウェーデンのようにいくつもの国が、性別にかかわらずに平等に仕事・家事・育児に携わることを後押しする「社会システム」を作ろうと努力している。その過程において、子どもの出産数が増加になったことも広く世界で知られている。
子を産む・産まない・産めないことだけではなく、多くの女性また小さく弱くされている人がハラスメントによって、その一人一人が傷つけられているか計り知れない。かく言う私自身も、差別意識によって女性や様々な人に辛い思いをさせていると思わざるを得ない。そのことを意識化し、忘れないで自覚したい。
女性が、また様々な性意識を持つ人、性指向を持つ人が一人の人間として尊ばれ、家族や社会に喜びをもたらす存在として生きていけるように願ってやまない。また、どの人もありのままに大切にされる「教会」でありたい。 

(「他者・弱者」の代表として「女性」と書くことが多いが、今回はあえて生物学的な性に基づく女性に焦点を合わせて、あえてカッコをつけずに女性と書いた)

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