2018年4月1日日曜日

いのちの朝 イースターに寄せて

                            2018年4月1日 イースター     牧師 山口雅弘

やっと春がやってきた。北国では、解けゆく雪を押し上げて、いのちの芽がグングンと現れてくる。自然の草木が春を知っているかのように芽生え、花を咲かす。教会の小さな梅の木は輝くように咲き、今は桜が満開を向かえている。私たちも、自他共に暗い闇のような世に生きているが、春の息吹を肌で感じ、五感を通してその「いのち」を受けとめる感性を持ちたい。

毎年、春とイースターは切り離せないものとして訪れる。闇を突き抜けて、新しいいのちに生かされ歩み始める時であろう。春の光を浴びて解けゆく雪を見ると、なぜこんなにもどす黒いのかと思えるほどドロドロとして汚い。白く輝く雪に潜む闇のような気がしてくる。私たちの内外に潜む罪の姿を思わせる。にもかかわらず、いのちの光に照らされて新しく生きていけるように「立て、さあ行こう!」とのイエスの促しを与えられている。感謝したい。

幸せな時に「感謝」することはやさしいかも知れない。しかし、「不幸」としか思えない哀しみと不条理の中にあって、それでも神を信頼して立ち上がり、新しく生きようとする意志と勇気を与えられることは何とすばらしいことであろうか。あふれるいのちの水を与えられて、何ごとにも屈しない「いのち」を与えられるからである。
私たちは、自分の人生において悩み苦しみを避けることはできない。しかし、私たちは決して絶望しない。神は私を、そして私たちを決して見捨てず、愛していて下さるからだ。私たちの哀しみに神の慰めを、醜い心に優しさを、傲慢に謙遜を、無気力に立ち上がる勇気を、絶望に光を与えられますように祈りたい。そして、神はどのような時にも私たちを愛していて下さるという「気づき」を与えられますように祈りたい。神を信頼し祈ることは、必ずかなえられることを信じ生きていきたい。

イエスの十字架の死は、人の命と人生を「愛する」生き方の極みであった。イエスは確かに弱さと苦しみのただ中で十字架によって殺された。しかし、それで終わりではなかった。神によって、闇の支配と暴力に打ち克つ「愛の勝利」として、「イエスの生命は新しく生きている」、これがイースターのメッセージとして聞こえてくる。新しい「復活の命」として生きて働くイエスが共にいて下さるから、私たちはどんなことがあっても、私たち自身が闇から立ち上がる「復活の命」をもって生きることができるのであろう。
イースターの「いのちの朝」、私たちは「今を新しく生きていこう!」とイエスに促されているのであろう。感謝したい。



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