2017年5月21日日曜日

あなたはどこにいるのか?

牧師 山口 雅弘



私たちは何となくあわただしく毎日を過ごしている。持て余すほどの時間があるのに、一所懸命になれることがなく毎日を過ごす人もいるだろう。また、病気などで何かしたくてもできない状態にいる人もいる。「時間」は万人に等しく一日24時間与えられているが、一日の時間の使い方、その過ごし方の積み重ねによって、それぞれの人生はずいぶん違ったものになるだろう。

少し前になるが、「人生の時間割」とも言うべき興味深い記録を読んだことがある。平均的アメリカ人の生涯が79年だとすれば(2014年の調査)、人生を次のように過ごしているという。 ― 食事に7年(準備・片づけを含む)、仕事に12年、娯楽に8年(仕事の付き合いではなく)、睡眠時間24年、おしゃべり3年、洗面・化粧・着替えなど5年半、そして教会に6カ月 ― これは比較的、教会に行くのが当然と考えるアメリカ人の統計だそうである。

私たちの場合はどうであろうか? 生涯の1/3を寝て暮らすのは何とももったいない気がするが、他のことに使う時間とその中味を見直す必要があるかも知れない。
一日単位で見ると、「一日の大切さ」をさほど感じないで、無意味なことに時間を費やして平気でいられることが多い。時には、無意味なことをすることも必要だと思うが、その結果の人生になるとすれば、豊かな人生を歩んでいると言えるだろうか。

面白おかしく日々を過ごすことができればそれも意味があるだろう。娯楽や遊び、また旅も人生を豊かにする。仕事に熱中するのもよい。その人にとって「大切なこと」を求めるのもよい。どれもこれもが、真実に自分の人生を豊かにし、有意義と思えるものならばなおのこと良い。

しかし、時として虚しさを感じ、生きがいを感じられなくて大切な「時間」が失われていくと思うこともあるだろう。そして、「死」によって地上のすべてが終わるとすれば…。

「あなたは、またあなたの大切な人はどこにいるのか」と神の問いかけと招きがあることを聖書は語る(創世記4章、他)。その招きに応えて神に立ち帰り、日曜日の数時間を、生涯の何時間かを礼拝を捧げるために用いることができたら、人生が変わるかも知れないであろう。

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