2016年4月24日日曜日

我、山に向かいて目を上げ

牧師 山口 雅弘


  熊本・大分における大地震によって、多くの尊い命が失われた。被災者は、今も不安の日々を過ごしていて、その苦しみは私たちの想像を絶する。また、報道によって「原発は大丈夫」と言われるが、原発の専門家でない私たちにもその危険性は大きいと察知できる。現に、「公共放送」では報道されない地震学者や原発の専門家の報告によると、かなり「危険」だと指摘されている。なぜ報道されないのだろうか? 地震大国の日本、しかも至る所に活断層が走る日本において、そもそも原発を設置する「安全」な場所はないと思えてならない。

  今も続く地震に加え、雨による土石流や山崩れに対して、人間の力はあまりにも小さすぎる。とりわけ、山々に囲まれる被災者は、どのような思いをもって「山に向かいて目を上げ」るのであろうか。

  大地震の過酷な経験の最中において、詩篇121篇を思い起こした。そこには、「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。…」と語られている。この詩人は、何を思い、どこから山を見上げているのであろうか。そこで気づかされることは、詩人はまさに人の行き交う所、社会の闇と不条理が満ち溢れ、哀しみと痛み、疲れと無気力、また孤独を抱える人々の中でこそ、この詩篇を読んだということである。

  「山」は、色々な象徴として語られてきた。「動かざること山の如し」ではないが、不動の重量感と静けさが山にあると言えよう。同時に、山は天候に翻弄され、自然の猛威を人に与える場でもある。従って、修行の場になり、人間の小ささと弱さを思い知らされる場である。また、朝夕の山の表情によって、心洗われる所でもあろう。かくして山は、霊山の神秘の中に「入る」場であり、道を求め、悟りを開き、開祖のもとに寺院が建てられてきたのも頷ける。

  しかし、山と一体になった寺院の中で営む生活は、出家してそこに「入る」ことはできても、そこから「出て」行く必然性があるのだろうか。托鉢に出て行くのも、再び山に「入る」ことを前提にしている。出家してそこに「入る」人が、そこで悟りと平安を得るのはよいが、悩み苦しみ、人間関係のしがらみ、政治経済のきしみや構造的な悪の中で生きる人はどうすればよいのか。

  イエスは、山々が続く荒野から村々に「出て」、人の生きる中で「神の愛と平和」の実現のために生きた人である。私たちは、山々に目を上げ神に助けを求めながら、生の人間が生きる中で「神の愛と平和」をもたらすイエスに「希望」を見出すことができるのであろう。

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