2015年1月25日日曜日

新しい年を迎えて

牧師 山口 雅弘

  新年を迎えてすでに3週間以上が過ぎ去った。依然として、人々の間には哀しみや問題が満ちている。そうであるほどに、それらを絶ち切って「水に流したい」と願い、大晦日には百八つの煩悩を打ち払い、良い年を迎えたいという感覚は、現代にも受け継がれているのであろう。

  その感覚に似ている言葉が、イザヤ書43章18節に見られる。「あなたがたは、初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」と。前に起きた哀しく苦しいことは「過ぎ去った」ことにして、いつまでも思い返し、繰り言を言ってはならないと語る。新約聖書のフィリピ書3章13節にも同様の言葉が見られ、「なすべき事はただ一つ、後のものを忘れ、前のものに向かって全身を伸ばしつつ、・・・目標を目指してひたすら走るように努めよ」と語られている。私たちは、このような聖書の語りかけを聞くと、そうありたい、過去のことに区切りをつけて新しく生きていきたいという共感の思いを与えられるのではないだろうか。
  今年も神社・仏閣に何千万人もの人が参拝したと聞く。老いも若きもそれぞれの人生を背負いながら、一体何を祈り願ったのであろうか。一年に一回しか行かなくても、そうして手を合わせる一人一人の人生があるということに思いを馳せられる。
同時に、このように思う。正月を一つの節目とし、そこで一切の嫌なことを忘れ、幸せを祈ることは大切であろう。その際、過去のことをしっかり省み、その責任を担って、現在を将来に向かって生きていくという姿勢を曖昧にしてはならない。「新しく生きていくために」である。聖書はそのことを私たちに問いかけている。
  新年を迎えて、政府は沖縄の復興予算を減額し、辺野古に新たな戦争の基地を作るために、反対する人々を強硬手段で蹴散らしている。平良修牧師の連れ合い悦美さんや何人かの青年が怪我を負わされた。
  「平和を実現する」生き方は、時として権力に対して「反逆する」ことになるであろう。何かを新しく生み出すことは、何かを捨て、変えることを避けることができない。それが自分のささやかな人生の在り様であっても、社会的な不正義と悪であっても、それを変革するために知恵と工夫を凝らし、笑いとユーモアを忘れずに新しいものを生み出す生き方を模索したい。生きとし生けるすべての生命の尊厳を損なわないために、である。聖書は、その生き方を、「悔い改めて生きよ」と言い表している。

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