2014年7月20日日曜日

小指の思い

牧師 山口 雅弘

好きなピアノ曲を聞くと、その音に引きずり込まれることがある。流れるような音のつながりと強弱、そのリズムに酔いしれながら、自分も弾けるかも知れないと錯覚してしまう。そこでピアノの前に座り、知っている曲を弾き始めると、たちまちその幻想は打ち砕かれる。

ピアノのキーにふれて、どうにも自由にならないのが小指。特に左手の小指は、私に逆らっているかのように動いてくれない。技量がないのだから仕方がないと思うが、ピアノという楽器はどうも、私のすべての指に「平等な」動きを強いているような「ひがみ」をもってしまう。

この世のあらゆることにも、「小指」に強いるような要求がありはしないだろうか。親指にも小指にも、同じことが求められ、親指のような働きができない人は隅に追いやられていく。それは哀しいことだ。小指が小指として一生懸命に生きていても、小指の個性は奪われていく。そして、社会の隅に追いやられ差別されることも少なくない。「差別」は、放射能汚染のように目に見えないまま、人の心と体をむしばんでいくのだろう。それは、差別する側の無関心・無感覚と、差別される側の諦めによって、いつしか差別の現実が「当り前のこと」になり、私たちの常識を形づくるのかも知れない。その一つの指標に「差別用語」がある。

言葉は人の心を表す指標と言える。言葉は、それを使う人の人間性、人間観、人生観をも表す。このようにして、寿や山谷に生きる人が「浮浪者」「怠け者」「飲んだくれ」などと呼ばれる・・・。最近、「寿の浮浪者が路上で死んだ」というニュースを聞き、哀しい思いになった。

本当は、弱く小さき人々を「小指」に譬えるのは失礼なほど、皆たくましく生きようとしている。にもかかわらず、個性と弱さを抱えた一人の人間である前に、社会的に小指にさせられていることも事実である。親指も小指も夫々の個性と違いを持つ人として支え合い、私たち自身「共に生きる者」という言葉にふさわしい生き方ができたら、きっと私たちの間に喜びの輪が広がるであろう。それにしても、小指が一・二度軽くふれるだけの素敵な曲はないだろうか。 

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