2015年8月16日日曜日

哀しみと涙によって育つ木

牧師 山口 雅弘


  毎年8月には、特に日本の戦争の歴史を「想い起し」、その責任を心にとめる必要があろう。さまざまな人が日本のみならずアジア諸国で、今も、戦後の傷跡を背負っているからだ。しかも、沖縄の米軍基地から戦争に飛び立つ兵士が絶えないことを忘れてはならない。沖縄の基地から「従軍牧師」の「祈り」によって出立する兵士は、世界各地で繰り広げている戦争による犠牲者を生み出している現実がある。

  さらに加えて、辺野古の美しい海の中に新しい基地が作られようとしている。私たちにとり、その現実は精神的にも「遠い」ものなのであろうか?

  沖縄では「戦争」が日常化し、人々が受けている被害も無くならない。つい先日も、米軍のヘリコプターが沖縄の海に墜落した。私たちの意識の中核にこの現実を刻み、平和を造り出す者でありたい。

  私は、沖縄に生育する「哀しみと涙によって育つ木」を想い起こす。「モモタマナ」という広葉樹で、沖縄では「うむまあ木」と呼ぶ人もいるそうだ。古くから墓の周辺に生え育っていると聞く。沖縄での激戦地になった摩文仁(まぶに)の丘の「平和の礎(いしじ)」には、24万人近い戦没者の碑を見守るように、250本近くの「うむまあ木」が植えられているそうだ。この木について、沖縄の詩人が哀悼の詩を綴っている。

 「いつも墓場に立ってゐて そこに来ては泣きくづれる かなしい声や涙で育つといふ うむまあ木といふ風変わりな木もある」。

  私は、沖縄を訪れるたびに、今もなお哀しみの涙を流す人々の「哀しみと涙」を汲み取って育つ木を見つめざるを得ない。戦争は、人を加害者にも被害者にもしてしまう。
私たちは、地獄を経験し殺されていった「死者たちの声」を聞くことにより、日本の悲惨な戦争の責任とその歴史の記憶を心に刻みたい。過去から何を聞き取り、何を見、何を「想い起こし」、何を学ぼうとするかは、その人がどこに視点を置き、どのような姿勢で今日を明日に向かって生きていこうとするかに、深く結びついている。そのことは、私たちの現在と未来の「世界と歴史」に対する責任を担うことであろう。

2015年8月9日日曜日

「平和」: 一つの大切、一つの反省

牧師 山口 雅弘

  かつて政界のドンと言われた田中角栄氏は、「五つの大切、十の反省」を提唱したことを思い出す。五つの大切とは、「人間、自然、時間、資源、国」で、十の反省とは、「仲良く、年寄りに親切、他人に迷惑をかけない、…」などが挙げられた。これだけを見ると、まことに結構な徳目であろう。

  しかしその後、今に至るまでに、「文部省を通して学校教育の中にもこのような徳目を生かしたい」と強調され、次第に衣の下の刃が見えてきた。かつての「修身・道徳」の復活として具体化され、日の丸・君が代の法制化などと一連のお膳立てがなされ、国公立の大学にまで日の丸・君が代の徹底化がなされようとしている。実に恐ろしい現実である。
 
  一方で、首相、閣僚らの靖国神社公式参拝が実行され続け、皇国史観(建国神話)に基づいた「紀元節」が「建国記念の日」(2月11日)と制定され、他方、元号法制化、防衛費増額、有事立法、日・米・韓の陸・海・空の合同大演習が続き、国家機密法案の可決、そして「戦争法案」と言われる安保関連法案が可決されそうになっている。さらに、憲法「改正」… と、実に危険な道を日本は歩んできている。気がつけば、「後の祭り」になってしまいかねない。
 
 このような事態に対する私たちの感覚も、良心も麻痺しているのだろうか。そうであればこそ、五つの大切、十の反省などではなく、徹底して「一つの大切、一つの反省」に立って歩む必要があると思わざるを得ない。

 「一つの大切」とは、人間、その生命と人生を何よりも大切にし合うこと。どのような人も、尊い生命を持つ人間として生活できる社会にすること。このことから当然、福祉や差別の問題・課題などが視野に入ってくる。

 「一つの反省」とは、心底から先の戦争を反省すること。戦争に至る道で、人間よりも国や体制が大切にされ、多数の人の利益や国のためということで、どれほどの人が犠牲になり、また加害者になったであろうか。戦争責任と戦後責任は、今も続いている。私たち自身がそのことを自覚すると同時に、若い人に、それを伝えたい。

 一つの大切、一つの反省に真剣でありたいと願ってやまない。次の歴史を担う幼い子どもたちのためにも。

2015年8月2日日曜日

「平和聖日」を覚えて

牧師 山口 雅弘

  本日は、日本キリスト教団で「平和聖日」と記念される日である。全国の諸教会が、かつての戦争を是認し、協力さえしてしまった罪責を覚え、平和を造り出すための歩みを新たにするように定められた日である。この日の礼拝で、村川元さんが貴重な体験をお話し下さることになり心から感謝したい。また日常生活において、平和実現のために祈りつつ生きていきたい。

  私たち人間は、なぜ愚かにも戦争をするのだろうか? 神によって尊い生命を与えられている人間が、どうして互いに傷つけ、争い、殺し合うのだろう? これは、単に人間の本性だとか、性善説・性悪説だとか、「原罪」などと言うことで説明・解釈できるものではない。

  人間の歴史を見ても、琉球や沖縄の人々、アイヌ民族や少数民族と言われる人々は、戦争をしない民族としての歴史を持つ。戦争は、決して良いものを生み出さない。私たちは、今をどのように生きるかが問われている。

  人の生命が踏みにじられる中で、戦争を始める人間は、戦争を止めることができる。また、戦争を止めさせることもできる。私たちはどんなに小さく弱い者であっても、身の回りの人間関係の中で、また社会の中で、平和の実現を祈り求める者でありたい。私たち一人一人が、宗教の違いを越え、政治的立場や様々な違いを越え、自分にできることをしたいと思う。
  先日は、特別伝道礼拝に多くの方々が集い、豊かな礼拝の時を持つことができた。また、近隣の仏教者や平和の実現を求めて活動する方々が来て下さり、感謝したいと思う。特に今、「戦争法案」と呼ぶべき法案が衆議院で採択され、参議院でも政府与党の多数派により決議されそうな事態を迎えている。このような危険な状況を阻止できないことは、私たちに責任があり、また選挙においてその法案を推し進める議員を選んでしまった国民に大きな責任がある。それでも私たちは、決して希望を失わない。知恵を集め、再び戦争へと突き進む暴走と暴挙を何とか止める努力をしたい。それは、未来の平和を実現する生き方に繋がり、無関心でいては大きな濁流に流されるだけだと思うからだ。
  教会に集う子どもたちやティーンズを見ていて、子どもたちの未来を暗いものにしてはいけない、子どもたちの笑顔を消してはならないとつくづく思う。そうであればこそ、小さな行ないの積み重ねによって、平和を実現する歩みが私たちに求められている。具体的に動けなくても、後方にいて支援し、平和を祈り求めることは誰にでも必ずできることを心に刻みたい。

2015年6月14日日曜日

遺稿集 『愛を告げる小さなパイプ』から

牧師 山口 雅弘

  死後の世界がどのようなものであるか、誰にも分からない。しかし、誰ひとり例外なく、すべての人に「その死」は訪れる。これほど確かなことはない。そして、不条理な死を迎えることは哀しい。しかし私たちは、死を迎えた方のすべてを神に委ねる神への信頼を持てる幸いを与えられている。また、「自分の死」を迎えるまで、尊い命をもって生きる者とされている。

  少し前に、理不尽な事情で死刑に処せられた五月明という方の遺稿集を、むさぼるように読んだことがある。五月さんの一日一日の生命は、かけがえのない繰り返すことのできない日々であった。

  彼は、いつ死刑執行の呼び出しがあるか分からない「自分の死」を前に、恐れおののき、不安の日々を冷たい牢獄の中で過ごした。それでも、何とか「一日の生命」を大切に生きようとした。彼は、その葛藤と希望をノートに書き記した。それが遺稿集『愛を告げる小さなパイプ』にまとめられている。それを読み進めるにつれて、五月さんの心奥深くにあるものを想い巡らさざるを得なかった。彼のいくつかの句を紹介したい。
  • 今日からは 死刑囚となり耐え生くか 余命短き命 愛でつつ
  • 妻と子に詫びの文を書かむとて 夜半まで目覚めて 言葉あらなむ
  • ゴキブリを袋に入れてかいながら 神の御前の我が姿思ふ
  • 妻と子の顔を見た時 言ふ言葉  髭をそりつつ あれこれ思う
  • 子のほほが 我の両のほほにふれ 一時の父の幸せにひたりぬ
  • 寒き夜は 節々痛みて眠られず 胸に手を組み 主のみ名を呼ぶ
  •  祈りにて洗礼受けしこの喜びを 忘れず生きたし 召さるる日まで
  • キリストに導きゆかれ 真泉のほとりに根をはる 緑樹とされたし
  • 沈黙の祈りの後は 山々の峰に立つより 心すがしさ
  • 自由の身が恋しくなって涙が流れる時は 目を閉じてがまんします
  • 心が重く暗い時は あなたが下さった光のみふみを読みつづけます
(五月 明 遺稿集『愛を告げる小さなパイプ』より)

2015年5月31日日曜日

取り乱しの経験

牧師 山口 雅弘

  しばらく前に、ある方から手紙をいただいた。その方は、礼拝に来たことがないけれど、誰かと何らかのつながりを求めていたのであろう…。

  電話やメールが全盛の時代に、その方は、「手紙」を通して心の内に秘めていたものを語ってきた。おそらく、一字一字に思いを込めて書いたのだろう。とても丁寧な字体だった。

  けれどもその内容は、家族との確執、癒される希望を失った病の苦しみ、先の見えない不安と恐れ、死の予感… を綿々と綴るものであった。

  「答え」をすぐに求めているのではない。簡単に「答え」を見出せるものでもないと思う。「誰か」に、心を取り乱すあるがままの姿をぶつけたかったのかもしれない。私はその手紙を読み、心の叫びを聴き、祈る他ない。

  人間だれだってみっともないものだ。何もかもきちっと整理できるものではない。人生において、どうにもならないことにぶつかり、途方に暮れることが誰にでもある。不条理に打ちのめされ、貝のように硬い殻を閉じて、人知れず泣くしかない時もある。希望さえ見出せない時、人はオロオロするまでに取り乱し、その重荷につぶされそうになる。その時は、自分のことしか祈れない。否、その祈りさえ言葉にならないこともある。

  そのような時、その人に寄り添って一緒に哀しみ、辛い思いを少しでも共にしようとする他ない。その生き方を抜きにして、重荷を背負う人に向かって教条的な教えや神学用語にちりばめられた「言葉」を語る者は、しばしば自分の目の前にいる「生身の人間」に向き合っていないのかも知れない。自戒せざるを得ない。

  けれども考えてみれば、自分ではどうすることもできず、オロオロするほどに取り乱す人は、自分の心の闇から搾り出すように、言葉にならない「うめき」のような神への「祈り」を与えられるのであろう。

  取り乱しの経験は、牧師であろうとなかろうと、いつも神の前の自分を見直す時になる。そして、神にも人にも取り繕うことができない、裸の自分を神の前に差し出す時になるのであろう。
自分の弱さを知らされ、心の内にある闇を見つめる時、あるがままの自分になって「祈り求める」時、神を見上げることができる。

  そして「いつしか」、不思議なほどに「平安」を与えられ、心の縛りが解き放たれ、明るい思いをさえ与えられることがある。祈りをぶつけることができる神がおられることは、何と幸いであろうか。

2015年5月17日日曜日

神の前に独り、そして…(ペンテコステに寄せて)

牧師 山口 雅弘

  次週の24日(日)は、ペンテコステ・教会創立を覚えて、子ども中心のメッセージを分かち合いながら、讃美と感謝の礼拝を捧げる予定である。また、水田洋美さんが稲城教会に転会されることを、心から感謝したい。

  教会には色々な方が訪れ、あるいは電話で、その方が抱えるぎりぎりの問題や悩み・苦しみを話して下さる。私は誠実に聞くだけで、心痛めながら祈るほかないことが多い。また、病気や加齢、ご家族の介護などのために礼拝を共にできない方がおられる。教会の内外を問わず、様々な方とその家族が、心身ともに支えられるようにと祈らざるを得ない。

  私たち相互の人間関係において、互いの励ましと祈り合い、また愛の行ないが心豊かなものを生み出すことは、神による大きな祝福であろう。

  同時に、人間関係ほど不安定で、不確かなものもない。夫婦や家族、また友人や知人などの間にすれ違いや争いが起き、憎しみが生まれ、別れが絶えない。教会も例外ではない。神に支えられ生かされている者同士であるが、私たちは皆「独り」であるという厳粛な事実の中に生きている。

  人は本来、「神の前に独りである」ことを自覚し、神の前に自らを省みる必要があるだろう。そして、自分の「孤独」に目覚めるならば、共に生きていこうという新しい前向きな人間関係も生まれる可能性がある。

  最初期のキリスト者は、自らの破れと弱さに打ちのめされ、ローマ帝国の過酷な支配、またユダヤ教の宗教的な圧迫によって様々な苦しみを強いられていた。そのことが、個人的な人間関係や家族の関係にも直接・間接にしわ寄せとなって現れていた。キリスト者は、社会的にも個人的な問題においても、それらの問題と闘うことに疲れ、悲痛な孤独の中にいた。

  しかし、そうであればこそ心を高くあげ、神に向かって祈りつつ生きようとしていた。独りであることを自覚し、しかも共に集まり礼拝を捧げ、祈っていた。その時に、人知を越えた神の力(聖霊の働き)を与えられ、立ち上がることができた。それがペンテコステの出来事であった。そして、小さな「教会」が誕生した。小さくても、尊い生命と人生を神に与えられ、生かされる者が教会として歩み出すことができた。そのことを、使徒行伝2章は、おどろおどろしい表現を通して、何としても伝えたかったのであろう。

  私たちは、それぞれが重荷や悩み・苦しみを持ちながらも、神の前に独りぬかずき、そして共に神に祈り、礼拝を捧げたい。その礼拝によって、すべてのことを始める稲城教会でありたいと願ってやまない。

2015年5月3日日曜日

言葉の隙間(すきま)を埋めるには

牧師 山口 雅弘

  先週、私たちは教会総会を開き、新年度に向けて歩み出した。稲城の地にたてられた教会として、一人一人が社会の中で神の愛と平和を宣べ伝え、一人でも多くの人を教会に招き、共に礼拝を捧げていきたい。そのために、私たち自身が礼拝を大切に捧げ、家族や友人、また知人に「教会に一緒に行ってみませんか」と声をかける一年でありたい。

  私たちが「伝道」する際に、自分の意志や希望を伝え、理解を深め合うための一つの手段として「言葉」がある。語り・聞く、書き・読むにしても、その言葉は、決して抽象的なものとして存在しない。言葉の背後には、言葉を用いる人の生活や生きる姿勢、人柄や人格などがあり、それを想い見ながら言葉の受けとめ合いをすることが大切であろう。

  私たちが生まれて今日まで、どれほどの人と触れ合い、出会ってきただろうか。その一人一人と言葉を媒介にして互いに知り合い、理解し合ってきたと思う。しかし、現代的な特徴として、互いのつながりやコミュニケーションをなかなか持てず、一人一人が個の内に閉じこもってしまうことが指摘されている。「孤独」ではなく、「孤立」してしまうこともある

  言葉は確かに不完全で、欠けや限界を伴う。何かを伝える言葉が、同時に何かを隠し、十分に自分の意志を語れず、さらに、自分の意図に反して誤解や偽りさえ生むこともある。そのために多くの行き違いが生じ、傷つけ合うことも少なくない。そのことによって、一人一人は自分の正直な思いを心に潜め、「孤立」に引きこもっていくのかも知れない。傷つけ、また傷つきたくないからであろう。

  言葉の不完全さ、またその隙間を埋めるにはどうしたらよいのだろう。必要なことは、言葉を語りかける具体的な人を思いみる想像力、その人への思いやりであり、また「信頼」を欠くことができないと思う。もし言葉を交わす人々の間に、互いの思いやりや信頼を必要としないならば、言葉の隙間はなかなか埋まらないだろう。愛し合う、支え合う、生かし合う、祈り合う、共に生きるなど、もし語り合う者の間に思いやりや信頼がなければ、ただ虚しく響くものになってしまいかねない。
  時は流れ、人は移り変わる。言葉も飛び散っていく。それだけに、言葉が持つ豊かさを互いに生かし合い、信頼関係を築いていくことが大切である。そのためにこそ、神の前に独り進み出て、新しく生きるために自らを省み、神の語りかけを聴いて生きていきたい。教会は、そのような場であろう。