牧師 山口 雅弘
しばらく前に、ある方から手紙をいただいた。その方は、礼拝に来たことがないけれど、誰かと何らかのつながりを求めていたのであろう…。
電話やメールが全盛の時代に、その方は、「手紙」を通して心の内に秘めていたものを語ってきた。おそらく、一字一字に思いを込めて書いたのだろう。とても丁寧な字体だった。
けれどもその内容は、家族との確執、癒される希望を失った病の苦しみ、先の見えない不安と恐れ、死の予感… を綿々と綴るものであった。
「答え」をすぐに求めているのではない。簡単に「答え」を見出せるものでもないと思う。「誰か」に、心を取り乱すあるがままの姿をぶつけたかったのかもしれない。私はその手紙を読み、心の叫びを聴き、祈る他ない。
人間だれだってみっともないものだ。何もかもきちっと整理できるものではない。人生において、どうにもならないことにぶつかり、途方に暮れることが誰にでもある。不条理に打ちのめされ、貝のように硬い殻を閉じて、人知れず泣くしかない時もある。希望さえ見出せない時、人はオロオロするまでに取り乱し、その重荷につぶされそうになる。その時は、自分のことしか祈れない。否、その祈りさえ言葉にならないこともある。
そのような時、その人に寄り添って一緒に哀しみ、辛い思いを少しでも共にしようとする他ない。その生き方を抜きにして、重荷を背負う人に向かって教条的な教えや神学用語にちりばめられた「言葉」を語る者は、しばしば自分の目の前にいる「生身の人間」に向き合っていないのかも知れない。自戒せざるを得ない。
けれども考えてみれば、自分ではどうすることもできず、オロオロするほどに取り乱す人は、自分の心の闇から搾り出すように、言葉にならない「うめき」のような神への「祈り」を与えられるのであろう。
取り乱しの経験は、牧師であろうとなかろうと、いつも神の前の自分を見直す時になる。そして、神にも人にも取り繕うことができない、裸の自分を神の前に差し出す時になるのであろう。
自分の弱さを知らされ、心の内にある闇を見つめる時、あるがままの自分になって「祈り求める」時、神を見上げることができる。
そして「いつしか」、不思議なほどに「平安」を与えられ、心の縛りが解き放たれ、明るい思いをさえ与えられることがある。祈りをぶつけることができる神がおられることは、何と幸いであろうか。
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