牧師 山口 雅弘
次週の24日(日)は、ペンテコステ・教会創立を覚えて、子ども中心のメッセージを分かち合いながら、讃美と感謝の礼拝を捧げる予定である。また、水田洋美さんが稲城教会に転会されることを、心から感謝したい。
教会には色々な方が訪れ、あるいは電話で、その方が抱えるぎりぎりの問題や悩み・苦しみを話して下さる。私は誠実に聞くだけで、心痛めながら祈るほかないことが多い。また、病気や加齢、ご家族の介護などのために礼拝を共にできない方がおられる。教会の内外を問わず、様々な方とその家族が、心身ともに支えられるようにと祈らざるを得ない。
私たち相互の人間関係において、互いの励ましと祈り合い、また愛の行ないが心豊かなものを生み出すことは、神による大きな祝福であろう。
同時に、人間関係ほど不安定で、不確かなものもない。夫婦や家族、また友人や知人などの間にすれ違いや争いが起き、憎しみが生まれ、別れが絶えない。教会も例外ではない。神に支えられ生かされている者同士であるが、私たちは皆「独り」であるという厳粛な事実の中に生きている。
人は本来、「神の前に独りである」ことを自覚し、神の前に自らを省みる必要があるだろう。そして、自分の「孤独」に目覚めるならば、共に生きていこうという新しい前向きな人間関係も生まれる可能性がある。
最初期のキリスト者は、自らの破れと弱さに打ちのめされ、ローマ帝国の過酷な支配、またユダヤ教の宗教的な圧迫によって様々な苦しみを強いられていた。そのことが、個人的な人間関係や家族の関係にも直接・間接にしわ寄せとなって現れていた。キリスト者は、社会的にも個人的な問題においても、それらの問題と闘うことに疲れ、悲痛な孤独の中にいた。
しかし、そうであればこそ心を高くあげ、神に向かって祈りつつ生きようとしていた。独りであることを自覚し、しかも共に集まり礼拝を捧げ、祈っていた。その時に、人知を越えた神の力(聖霊の働き)を与えられ、立ち上がることができた。それがペンテコステの出来事であった。そして、小さな「教会」が誕生した。小さくても、尊い生命と人生を神に与えられ、生かされる者が教会として歩み出すことができた。そのことを、使徒行伝2章は、おどろおどろしい表現を通して、何としても伝えたかったのであろう。
私たちは、それぞれが重荷や悩み・苦しみを持ちながらも、神の前に独りぬかずき、そして共に神に祈り、礼拝を捧げたい。その礼拝によって、すべてのことを始める稲城教会でありたいと願ってやまない。
お会いしてから2週間も過ぎました。平和の問題が大きな関心事になってきました。稲城市からも声をだしていきたいと取り組みをすすめております。月一回地域で平和の問題や関心の高い問題を取り組んでいるグループがお互いに情報交換や協力共同の取り組みを続けてきております。「いなぎ平和と安全を考える連絡会」に山口牧師さんとお話しした内容を伝えました。メンバーのみなさんにどのようなかたちでご紹介したらいいか考えました。提案ですが、山口さんのブログを読ませていただきましたが、平和の問題では大きな共感をもちました。 この内容で私たちにお話をしていただき、そしてどのようなかたちで協力しあえるか率直な意見交換の場をもつということでいかがでしょうか。6月下旬から7月上旬の期間内で昼間或は、夜間でも調整できます。 お忙しい山口牧師さんのスケジュールに合わせるよう調整します。日程を第一希望第二希望まで指定いただけると助かります。以上取り急ぎ提案せせていただきます。
返信削除