2015年5月3日日曜日

言葉の隙間(すきま)を埋めるには

牧師 山口 雅弘

  先週、私たちは教会総会を開き、新年度に向けて歩み出した。稲城の地にたてられた教会として、一人一人が社会の中で神の愛と平和を宣べ伝え、一人でも多くの人を教会に招き、共に礼拝を捧げていきたい。そのために、私たち自身が礼拝を大切に捧げ、家族や友人、また知人に「教会に一緒に行ってみませんか」と声をかける一年でありたい。

  私たちが「伝道」する際に、自分の意志や希望を伝え、理解を深め合うための一つの手段として「言葉」がある。語り・聞く、書き・読むにしても、その言葉は、決して抽象的なものとして存在しない。言葉の背後には、言葉を用いる人の生活や生きる姿勢、人柄や人格などがあり、それを想い見ながら言葉の受けとめ合いをすることが大切であろう。

  私たちが生まれて今日まで、どれほどの人と触れ合い、出会ってきただろうか。その一人一人と言葉を媒介にして互いに知り合い、理解し合ってきたと思う。しかし、現代的な特徴として、互いのつながりやコミュニケーションをなかなか持てず、一人一人が個の内に閉じこもってしまうことが指摘されている。「孤独」ではなく、「孤立」してしまうこともある

  言葉は確かに不完全で、欠けや限界を伴う。何かを伝える言葉が、同時に何かを隠し、十分に自分の意志を語れず、さらに、自分の意図に反して誤解や偽りさえ生むこともある。そのために多くの行き違いが生じ、傷つけ合うことも少なくない。そのことによって、一人一人は自分の正直な思いを心に潜め、「孤立」に引きこもっていくのかも知れない。傷つけ、また傷つきたくないからであろう。

  言葉の不完全さ、またその隙間を埋めるにはどうしたらよいのだろう。必要なことは、言葉を語りかける具体的な人を思いみる想像力、その人への思いやりであり、また「信頼」を欠くことができないと思う。もし言葉を交わす人々の間に、互いの思いやりや信頼を必要としないならば、言葉の隙間はなかなか埋まらないだろう。愛し合う、支え合う、生かし合う、祈り合う、共に生きるなど、もし語り合う者の間に思いやりや信頼がなければ、ただ虚しく響くものになってしまいかねない。
  時は流れ、人は移り変わる。言葉も飛び散っていく。それだけに、言葉が持つ豊かさを互いに生かし合い、信頼関係を築いていくことが大切である。そのためにこそ、神の前に独り進み出て、新しく生きるために自らを省み、神の語りかけを聴いて生きていきたい。教会は、そのような場であろう。

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