牧師 山口 雅弘
毎年8月には、特に日本の戦争の歴史を「想い起し」、その責任を心にとめる必要があろう。さまざまな人が日本のみならずアジア諸国で、今も、戦後の傷跡を背負っているからだ。しかも、沖縄の米軍基地から戦争に飛び立つ兵士が絶えないことを忘れてはならない。沖縄の基地から「従軍牧師」の「祈り」によって出立する兵士は、世界各地で繰り広げている戦争による犠牲者を生み出している現実がある。
さらに加えて、辺野古の美しい海の中に新しい基地が作られようとしている。私たちにとり、その現実は精神的にも「遠い」ものなのであろうか?
沖縄では「戦争」が日常化し、人々が受けている被害も無くならない。つい先日も、米軍のヘリコプターが沖縄の海に墜落した。私たちの意識の中核にこの現実を刻み、平和を造り出す者でありたい。
私は、沖縄に生育する「哀しみと涙によって育つ木」を想い起こす。「モモタマナ」という広葉樹で、沖縄では「うむまあ木」と呼ぶ人もいるそうだ。古くから墓の周辺に生え育っていると聞く。沖縄での激戦地になった摩文仁(まぶに)の丘の「平和の礎(いしじ)」には、24万人近い戦没者の碑を見守るように、250本近くの「うむまあ木」が植えられているそうだ。この木について、沖縄の詩人が哀悼の詩を綴っている。
「いつも墓場に立ってゐて そこに来ては泣きくづれる かなしい声や涙で育つといふ うむまあ木といふ風変わりな木もある」。
私は、沖縄を訪れるたびに、今もなお哀しみの涙を流す人々の「哀しみと涙」を汲み取って育つ木を見つめざるを得ない。戦争は、人を加害者にも被害者にもしてしまう。
私たちは、地獄を経験し殺されていった「死者たちの声」を聞くことにより、日本の悲惨な戦争の責任とその歴史の記憶を心に刻みたい。過去から何を聞き取り、何を見、何を「想い起こし」、何を学ぼうとするかは、その人がどこに視点を置き、どのような姿勢で今日を明日に向かって生きていこうとするかに、深く結びついている。そのことは、私たちの現在と未来の「世界と歴史」に対する責任を担うことであろう。
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