牧師 山口 雅弘
かつてパソコンが世に出始めた頃、時代の先端をいくと自負していた人から、「山口先生、まだパソコンを使わないのですか」とからかわれたことがある。その後、流行にはすぐ乗りたくない天邪鬼な私に、同僚の牧師たちからも同じように言われたことを思い出す。ずいぶん経ってからだが、私もパソコンを購入し、文章を作成する便利な道具として使っている。
少し前だが、テレビで、パソコンや携帯電話のスマートフォンを使えない父親に、娘が「時代は変わったのよ」と揶揄して語る様子を見たことがある(私もスマホを使っていない)。なぜか、心が寂しくなる気がした。
世の中すべてが早く進み、確かに便利になっている。それ自体を否定はできないであろう。文明の利器によって、どれほど助かっている人が多いかを思うからである。
同時に、いつの間にか最先端の機器が身の回りにあふれ、合理的なものが優先され、それについて行けない人々は取り残されていく社会になっているのではないだろうか。早く話せない人、思うように手足を動かせない人、心身に障がいをもつ人、お年寄り、様々な弱さを持つ人々は、その人間性まで軽く見られ、無視されている気がしてならない。
先日、牧師の集まりで「主の祈り」を共に祈った時、その早いこと、超特急で早口言葉のような祈りであった。「これでは、ゆっくりにしか話せない人と共に祈れませんね」と「さわやかに」言わずにおれなかった。ほとんどの牧師が頷いたので、「さわやかに」聞いてくれたと思いホッとした。かく言う私自身、最近、多くのことを語りたいために早口でメッセージを語る傾向にあると自戒している。
知的な遅れを持つ人と共に生きる牧師が、次のように訴えている。見えないもの、非合理なものを無視し、見えるもの、合理的なもの、新しいものだけが優先される社会は、貧しい社会と言わざるを得ないと。確かに、心豊かな文化、愛、優しい心を持たない社会になると、人間だけでなく、自然も動植物も滅び、多様なものの共生の道が閉ざされてしまうであろう。
私たちは、見えない神に思いを向けながら、小さくされ弱さを抱えている人、社会の動きから取り残されていく人、「強い者」の犠牲にされていく人、悩み苦しみ・愛を必要とする人と、愚直なまでに共に生きていきたい。イエスがそうであったように。そのような稲城教会として、新たな思いをもって歩み出したい。今日は総会の日。