牧師 山口 雅弘
先日の受難週を迎え、中川雪子さんの葬儀を教会で行った。人生の最期をご家庭で聖書を読み祈りを持って過ごし(前夜式)、教会でご遺族また教会の方々の祈りと賛美に包まれて地上でのお別れの時を過ごした(葬儀)。神のもとへの凱旋の時であった。また、神に与えられた生命と死をめぐり、人の生き死について色々なことを考えさせられた。
誰にでも必ず「死」は訪れる。その死はいつ来るかわからない上に、死を迎えると何らかの「葬儀」が行なわれる。しかも、葬儀に直接関わり心を配るのは当人ではなく、遺族・関係者である。その一人である司式者として、教会での葬儀について改めて考えてみた。
教会での葬儀は、亡くなった方との地上での最後のお別れとして、遺族また私たちにとって大切な時である。故人の信仰とその生涯を思い巡らし、その人のすべてを神にゆだねる時である。また、どのような人をも神はあるがままで受け入れ、生かして下さったことを想い、遺族に慰めを祈り求める「礼拝の時」でもある。であるとすれば、教会では、特別の事情や緊急の場合を除き、死者や遺族の信仰、また私たちの故人への想いがどうであろうとかまわない葬儀は行ない得ないであろう。
ここで問題になるのは、故人が教会に来ておらず遺族が信仰者である場合、また故人が教会に来ていても遺族が教会に来ていない場合である。
後者の場合、教会に来ている方は、生前に「自分の葬儀」について家族に希望を伝えておく必要があるだろう。葬儀に直接関わるのは遺族だからだ。前者の場合、家族の人が教会に連なるように祈りつつ、自分が行っている教会のこと、また「葬儀」について機会を見て話し合うことが必要である。それがかなわない場合、牧師・役員に葬儀について相談することが望ましい。同時に、故人が違う信仰をもっていた場合、そのことを先ず尊重して熟慮し、遺族の希望をよく聞く必要があろう。
愛する方の死に直面することほど哀しく辛いものはない。教会の葬儀では、「別れ」の悲しみに沈む方に神による慰めと励ましがあるように心から祈り、また「自分の生と死」を見つめ直し、神の導きを祈り求める。さらに、生をも死をも支配する神に信頼し、「神が与え、神が取られる。神の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)と神に思いを向け、すべてをゆだねる時でありたいと願う。神のもとでの大切な最後のお別れであるだけに、葬儀を頼むという都合だけが優先するならば、寂しい限りである。
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