牧師 山口 雅弘
1945年8月6日(月)、雲一つない快晴の日、米軍爆撃機「エノラ・ゲイ」が「リトルボーイ」という原子爆弾を搭載し広島の上空にやってきた。8時15分、ついに人類史上初の原子爆弾が投下された。地上600メートルの上空で閃光を放ち、火の玉が炸裂。後に「ピカドン」と呼ばれるようになった。火球の中心温度は100万度を超え、爆心地周辺の地表温度は3000~4000度に達したという。いくら想像力を働かせても、このことを思い描くことはできない。しかし丸木位里・俊ご夫妻は35年かけて、広島の地獄を「原爆の図」に描いている。14万人以上の命が一瞬にして奪われ、原爆による被災者また放射能被害者は今も苦しんでいる。
戦後、広島の地に「原子力発電所」を建設する案が浮上したという。原子力の開発継続を被爆地の広島で行おうとしたとのことである。「原爆と原発」はそもそも結びついていることを知らされる。だから日本政府と企業は、原子力発電をやめようとしないのであろうか。人間はどこまでも「悪魔」になれるのかと思わざるを得ない。それを許す私たちはどうであろうか。
私たちの地球では、絶えずどこかで必ず朝を迎える人がいる。人だけではなく、生きとし生けるものすべてが朝を迎える。それは希望の朝であろうか。それとも哀しみや苦しみの朝、一瞬にして命を奪う朝であろうか。
グァムは、「常夏の楽園」と知られ、そこで迎える朝は言葉を失うほどすばらしいそうだ。年間100万人以上の日本人が「常夏の島」グァムを訪れるという。しかし70数年前、日本軍がグァムに進撃し、「大宮島」と改名し支配していた。1944年7月、5万人の米軍が反撃し、日本軍2万人が「玉砕」した。多くの民間人や島民も殺され、環境も破壊された。グァムの北サイパン沖のテニアン島から、広島、長崎への原爆搭載機が出撃したのである。
フィリピンの山々やジャングルを逃げまわった人々、中国や朝鮮半島で戦火におびえ殺されていった人々、また沖縄の血で染まる海に身を投じ、ガマ(洞窟)の中で声を潜めていた人々、その人々が迎えた暑い夏の朝はどんな朝だったのだろう。グァムが「平和の楽園」と呼ばれ、沖縄はリゾート地になっているが、歴史の現実を忘れ、今も沖縄の人々は不安の朝を迎えている。再び地獄の朝を迎え、人々が犠牲にならないとも限らない。
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