牧師 山口 雅弘
2016年11月27日(日)第一アドベント
今日から、アドベント・待降節が始まった。「待降節」という言葉は、ラテン語の「アドベント(到来する)」に由来し、イエスが私たちの所に「到来する」ことを「待ち望む」期間を示す。世々の教会は、イエス・キリストが私たち自身とこの世のただ中に来て下さったことを心にとめ、忙しい生活であっても、できる限り「心静かに」クリスマスを待ち望み、礼拝の「時」を過ごしてきた。
しかし、心静かに待降節を過ごすことは、なかなか難しいことである。私自身そうであるが、日常生活において「何を一番大切にするか」が希薄になり、仕事や日常の用事に追われて日々が過ぎていくからである。
アドベントは、毎年訪れる。しかし「今年も」、この時を迎えられることは、決して当り前のことではない。尊い生命を与えられ、「今年も」と言えることを心から感謝したい。
クリスマスの季節には、とりわけ聖書の中の「イエスの誕生物語」を語り・聞くことが多い。イエスの誕生の喜びと感謝を分かち合うクリスマスを「待つ」時であるから当然であろう。そこで、イエスの誕生の出来事を「もの語る」ことはどういうことであろうか、と自問してみた。
「もの語る」の「もの」とは、物質を示す「物」ではなく、例えば「ものの哀れ」、あるいは「もの悲しい」「もの寂しい」などとあるように、内なる心、内なる思いを意味するようだ。また「語る」とは、「話す」あるいは「伝える」こと以上に、相手を思い、心配りをして語ることを意味するであろう。従って、イエスの誕生を「もの語る」ことは、自分の心や思いを尽くし、また語りかける相手に問いを投げかけ、その心に何かを受けとめてもらえるようにという願いをもって語りかけることになる。
最初期の「キリスト者」は、自分の人生を変え、与えられているイエスの誕生の喜びを何としても伝え、「もの語る」ことに突き動かされたのであろう。そのようにして、イエス・キリストが「もの語られる」時、言葉は力と生命になって私たちの心に働きかけるのであろう。また、その言葉の生命と力が私たちを突き動かす時、イエス自身が私たちの生きる只中にいて下さるという経験を与えられることは確かである。
私たちの人生の途上において、イエスとの出会いを与えられたことを心から感謝し、他の人にイエスの誕生を「もの語って」いきたい。そのためにも、アドベントの時を、心静かに礼拝する時にしたい。
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