牧師 山口雅弘
ユダヤ人にとって、食事は交わりの基であり、喜びの宴、神と人との祝宴であった。さまざまな苦しいこと、辛く哀しいことを経験し、重荷を背負う毎日だったが、食事の交わりは、互いの間に喜びと笑いを生み出す時になった。また、何よりも食事は、神への「感謝」を表わす時であった。
食事の時には、祈りをし、讃美歌を歌い、聖書の話を聞き、少しの物を分け合って食べた。同時に、パンを食べワインを飲むというだけの食事ではなく、パンを分け合う時に神の愛を分け合う「感謝」を確かめ合い、神の国に生きようとすることを現わすのが食事であった。
しかし、その「神の国の食事」を共にできない人々がいた。あなたは罪を犯した「罪人」だ、「汚れている」などと言われていた人々である。心や体の病気になっている人、体の不自由な人もそうだった。
また、いろいろな規則によって資格がない、条件に合わないとされた人、一人の人間と見られず、何の権利も資格もないと見なされていた女性や子どもたちもそうだった。それがユダヤ教の規則であり、決まり、しきたり、常識であると強調され、宗教的にもそのように教えられた。
そのことに大胆にメスを入れたのがイエスである。イエスは、ユダヤの食事の意味を受け継ぎつつ、規則や条件から排除され、資格がないとされた人々とこそ「神の国の食事」を共にされた。その食卓はまさに、年齢、国籍、性別、社会的立場などすべての垣根を乗り越え、神の一方的な招きと恵みを「感謝する(ユーカリスト―)」食卓、またすべての人が招かれている開放性と、あらゆる排除からの解放性を実現しようとする食卓であった。さらに、どのような人も神の食卓に招かれ、生命を与えられ生かされていることの「感謝(ユーカリスト)」を分かち合う時であった。
イエスは、そのような食事をしつつ、神に生命を与えられ生かされているすべての人と共に生きようとしたのである。それゆえに「罪人や汚れた人の仲間になった」と非難された。にもかかわらず、そのように規定され排除される人々と「楽しく喜びに満ちた」食事を共にしようとしたのである。神のもとにある人間のヒューマニズムの極みを示すであろう
それが、神の一方的な招きの恵みに「感謝」そのものを示す「聖餐(ユーカリスト)」になったのである。(続く)
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