牧師 山口 雅弘
稲城教会に遣わされて、あっという間に2ヵ月半が過ぎた。礼拝後に就任式を予定しているが、あらためて稲城教会の歩みを思いめぐらした。教会の一断面として、考えさせられたことを記しておきたい。
通常、教会の歴史や記念誌がまとめられる際に、歴代の牧師や役員が表舞台に現れる。その方々の祈りと働きがあって、教会の歩みは豊かにされてきたのは確かであろう。
同時に私は、「公けの歴史」に留められることの少ない人々、歴史の背後に隠され見えにくくされていく人々への思いを熱くする。牧師や役員と共に、その方々が教会を支え、歴史を形成してきたのである。
忙しい日々の中で礼拝をささげ続け、病気や心身ともに不自由を抱え、重荷を負いつつも、神の愛に応えて礼拝を大切にしてきた方々がいての稲城教会である。また、さまざまな事情で礼拝に集えなくても、教会のために祈り、捧げ物をしてきた方々がいることを忘れてはならない。
また、礼拝のために司会・奏楽・受付などを通して教会の働きに参加し、また花を飾り、掃除をし、表になり裏になって教会の働きのために祈り、悩み苦しむ人に語りかけ、その一人一人に寄り添う方々。花壇の手入れをし、台所に立ち、ゴミをそっと片付ける方々。また、幼い子どもたちのために祈り、礼拝において子どもとのひと時を受け持つ方々…など。
こうして、教会のために祈り、支え、捧げ、教会を形づくる方々こそが、神が導き育てる教会の歴史の主人公なのである。
教会はまた、過ちや挫折をも経験してきただろう。人間関係がギクシャクしたこともあったと思う。にもかかわらず、弱く「いと小さき人」の場に生きようとした方々の祈りと志を私たちは持ち続けたいものである。
社会の至る所で、人間が束にして扱われ、多くの人が人知れず苦しみの叫びをあげ、涙を流しているとすれば、教会に与えられている使命は大きい。それは、稲城の地に生かされる教会の課題であると同時に、アジア・世界の中の日本が抱える問題でもある。
稲城教会が、右傾化した危険な時代と社会の中で、イエスの福音に生かされるがゆえに苦闘を強いられても、神の生命が小さな教会に躍動するエクレシアとして歩めるように祈りたい。
牧師も人も、教会も建物もいつしか歴史の中で変わっていくが、いつもすてきな教会でありますように祈りたい。
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