牧師 山口 雅弘
久しぶりに「牧師の徒然草」を書いてみたい。
先日来、政治家の「失言、暴言、虚偽発言…」などで、「政治家の資質」が問われている。その「資質」をめぐり考えていて、宗教改革者の一人が「説教者(牧師)の資質」についておおよそ次のように語っていたことを思い起こした(メモによるので不正確かも知れない)。
牧師たる者は、① 色々なことをせず専任者であれ、② すべての人の悩み・苦しみを負え、③ 説教に苦労し、生命をかけよ、④ 雄弁であれ、 ⑤ よい頭脳を持て、⑥ よい記憶力を持て、⑦ 欠点をあげつらう者の批判をすべて耐えよ、⑧、⑨…
宗教改革の激動の中での「心意気」としては分からないでもないが、これを知っていたら、私はとても牧師にはなれなかっただろう。また、その人が指摘する「信徒たる者の資質」は…、言わぬが花であろう。そのように語る宗教改革者は、どのような「資質」を持っていたのだろうか?
さまざまな問題で揺れ動く社会の中で、悩み苦しみ、重荷を負わされる人に寄り添い、失われた魂の救いを祈り求めながら生きようとしている人は、牧師に限らず常に自分が問われるであろう。ミリアムと弟モーセは、奴隷社会からの解放に歩み出そうとした時、神の前に「私は一体何者でしょうか」と問わざるを得なかった。イザヤも「自分は汚れた者でしかない」と告白せざるを得なかった。エレミヤも、そしてパウロも同様である。歴史に名を残されていない多くの人もそうであっただろう。神からの「召命」ですら、本当に自分への「召命」なのかと問わざるを得ない。従って、伝道者また牧師の「資質」を問われて、神の前に立つことのできる人が果たしているのだろうかと、自らを省みるほかない。
私たちは多くの矛盾や欠けを負っている。その現実の中で揺れ動き、自らの信仰的前提や思いこみを打ち砕きつつ聖書の語りかけに聴き、「失われた魂」の声に聴き、イエスの生命にふれて歩むことが求められていると思う。また、牧師・信徒・求道者などと分けることに「不遜」が隠れているのかも知れない。最初期のキリスト教には「牧師職」すらなかった。神は、すべての人を分け隔てることなく愛し、生かして下さることを心に刻みたい。
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