牧師 山口 雅弘
イエス・キリストの復活の朝、イエスに従う者たちの間にあったのは喜びというより驚きと不信であった。彼ら・彼女らは、イエスの復活の語りかけを聞いても、「それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」と言われる(ルカ24:11)。失意とイエスを見捨てた自責の中にいる弟子たちが、自らの不信と不確かさを心に抱き、すぐに喜びと確信を持てなかったのは当然であろう。その弟子たちに、私たち自身の姿を重ねて見る思いがする。
復活のイエスに出会った彼らは、幻想をいだき幻覚を見たのではない。異常体験をしたのでもなく、物理的に目に見える復活のイエスに出会ったのでもない。もちろん、「科学的」にそのように説明する人もいるが、むしろ聖書の物語が強調することは、共にいるイエスを「認めることができず」に落胆する弟子たちの姿、希望を失って散りじりになる中で、「聖書全体にわたり、…説き明かされて」、イエスに「出会った」ことである。つまり、聖書の語りかけ(メッセージ)を通して、復活の生きたイエスとの実存的な出会いを与えられたのである。そのことが、ルカ福音書に示されるエマオ途上の出来事、また他の福音書にも語られている。
弟子たちは「聖書の言葉」を聞くことを通して、十字架の死に至るまで神の愛に生きたイエスの一つ一つの出来事を心に思い巡らし、決して美化できないイエスの壮絶な死に、イエスを追いやる自分自身を見つめ直していた。そこでイエスの愛を深く想い起こし、罪の深さを心に刻み、その中で、「互いに心が内に燃える」経験を与えられたのであった(ルカ24:32)。
「教会総会」と言えば、何となく肩苦しく感じ、気後れする人も少なくないであろう。教会がこの世の組織であるからには、宣教計画や諸活動の反省と展望、経済的「運営」のことを検討しなければならない。さらに、教会の歩みの不確かさや不足を思わざるを得ないかも知れない。
けれども教会総会では、教会に集うすべての人が、教会の歩みの不確かさや弱さの中で「聖書のメッセージ(言葉)」を聞き、祈りをもって新年度に向かって歩み出すことを大切にしたい。「礼拝」を捧げることを中心に、奇をてらったことの実践だけを求めるのではない。復活のイエスに支えられてこそ教会の歩みがあることを互いに「認め」、「互いの心が内に燃える」経験を分かち合う出発の時にしたいと願う。
神への感謝と祈りがある所に、どのような困難が待ち受けていても、共にいるイエスに応える歩みと希望が与えられる。これは確かである。
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