2018年5月20日(日) ペンテコステ 山口 雅弘
「真実を求めて」避けてはならないことに携わると、どうしても一生懸命に「頑張り過ぎ」てしまうことがある。その時に、次のことを思い起こした。
北海道の浦河という小さな町に、小さな浦河伝道所がある。その教会に関係する「べてるの家」という施設では、心の病を持つ人たちが作業所を営みながら共同生活をしている。べてるの家では、「頑張らない」ことが大切にされているそうだ。それは、病気や障がいを持つ人が「あるがままに」互いを受け入れ合うためである。そこで暮らしていた山本賀代さんという方が記した詩を紹介したい (横川和夫『降りていく生き方』太郎次郎社、2003年)。
わたしの どこがいけないの
あのこの どこが変でしょう
目に見えるもの 少し違うかもしれない
聞こえてくること 少し違うときもある
だけどそれだけで 見下さないで 見捨てないで
私だって笑っている 私だって怒っている
私たちも愛し合う 私たちも語り合える
痛みもある 喜びも 苦しみも
あなたと同じに 感じているはず
人間なんだ あなたと同じ
人間なんだ 私もあなたも
人間なんだ 病気とかでも
人間なんだ あなたも私も ・・・
この詩に表されているように、互いの違いを受け入れ合い、多様性の豊かさを求めて「互いに愛し合う」現実を求め、一生懸命に生きている人々がいることを覚えたい。そのためにこそ、過ちや不誠実なことを曖昧にしておかないそうだ。
教会には色々な人が集ってくる。また誰でも来ることのできる場所である。年齢や性別や性指向(異性愛、同性愛、両性愛など)、置かれた立場や環境、また考え方が違う人が集い、それぞれの哀しみや重荷を背負って生きていける、その基いとして、また出発点として教会が用いられるのであろう。その教会の中心は、神にこそ呼び集められた者の「礼拝の集い」ということにあり、何はなくても「礼拝する群れ」であろう。
稲城教会に集う私たちは、神の生命の息吹に生かされ多様な人生を「生かされている」、このことをペンテコステに静かに思い巡らしたい。